茶々丸の代わりに夕飯を作るため、エヴァンジェリン宅のキッチンは人でごった返していた。それぞれが決められた役割をこ
なし、ソファーでくつろいでいるエヴァのために腕をふるっている。
食材の匂いを纏った湯気が換気扇に巻き取られ、外の夜気に吸い込まれる様子は、一般家庭の風景となんら変わりなかった。
「あっ、姉さん! それ塩じゃなくて砂糖っスよ!」
「そうよ? 何か変?」
「そこは塩を入れるところやえ?」
「明日菜さん! そんなもの入れたら料理が不味くなってしまいますわ! お猿さんは黙ってテレビでも見ててください!」
「何よ! 分かんないんだからしょうがないでしょ!!」
「うるせえなぁ……大体、こんな大人数で料理作ったってしょうがねぇだろ……」
「あの……僕も何か手伝いましょうか?」
「いいえ! ネギ先生はお手を煩わせずとも、あちらでエヴァンジェリンさんと一緒にくつろいで下さっていいんですのよ?」
「ザジちゃん、料理上手いなぁ。いつも作ってるん?」
器用にフライパンの上でピラフをひっくり返していたザジがニコリと微笑んで返す。
食材があやかの自前発注という事もあってか、使い方に遠慮がない。
フランス料理職人を呼んで来ればこんな苦労をせずに済んだのに、とあやかは愚痴を零したが、誰も賛成しなかったので、大
人しく皆と肩を並べて、高級食材と格闘している。
「あ゛〜〜〜〜! 焦げてる焦げてる!!」
「あ、明日菜さん、何やってるんですか!!」
「はわわわわ……火が……」
「うお、危ねぇ!!」
黙って見守っていたエヴァは、そんな慌ただしい様子を見て、「やれやれ、茶々丸の有難みが分かるな……」 と一人呟いた。
ふいに思考を割られて念波が入った。周りの雑音が邪魔にならないよう、二階のベランダへ出て窓を閉める。
「パーティーは楽しんでるかい?」
龍宮からだった。パクティオーを交わしていたため、向こうからでも念話で話し掛けてくることができるが、余程疲れが溜まって
いるのか、少し眠たそうな声で尋ねてきた。
「うるさくてかなわんよ。茶々丸の有難みが良く分かった。帰って来たら少し労ってやろうと思うぐらいだ。それより何だ、お休
 み中じゃないのか?」
「ああ、目が覚めちゃってな。けど、やっぱり眠い。それで、少し気になった事があるんだ」
「気になった事? 向こうの事か」
「ああ。まずそっちの意見を聞きたいんだが、エヴァンジェリンは、どう思った?」
「そんな漠然とした訊き方ではぐらかさずにとっとと言え。私も暇じゃないんだ」
冗談の混じった龍宮の言動は、エヴァもあまり好きではなかったため、先の話を促す。
「ふふ、そんな連れない事言うなよ。まぁ私もこれから睡眠という大行事が待ってるので、暇ではないのだが。で……刹那につい
 てなんだが」
「反分子の事か。いや、反分子は言い過ぎか。十分あちら側に馴染んでいる」
「うん。それでな、あの世界はどうも、妙に“出来過ぎてる”と思わないか?」
「そりゃあ当然だろう、この世界をそのまま写し取っただけのコピーなんだから」
「ああ、でも、3Aの性格は大分違っていた。あんなクラスメート虐待が起こっているなら、あそこまでいく前に全員で止める。
 本当の3Aならそうする筈だ」
「だろうな。平和ボケした奴らが多いから、そうなるだろう。それで、そうならなかったのを、お前はどう考えているんだ?」
「少し考えてみてくれ。私も流石に大仰な推測の域を出ていない。見てて気付いたんだが、向こうには決定的に、『ある一点』
 が欠けていた。何だと思う?」
「大きな一点? 見た目に関する事か?」
「まぁ、そうだな、そういうことだ。それはひょっとしたら、あちら側のにとって、とても大きな穴なのかも知れない」
只のコピーでないとするならば、少なからず頭を弄っている。では、『何』を弄っているのか。
見た目……欠けている何か。
「そんなに難しく考えなくても、気付いてみれば、何故気付かなかったのか不思議なぐらいさ」
エヴァが考え倦ねているさなか、誰かが窓ガラスをコンコンと叩く音がしたので、後ろを振り返った。
同時に、龍宮も人が来た事に気付いたらしく、念話を打ち切った。
「それじゃあ、宿題ということで」
「おい、貴様……!」
「ん、あれ……何か……邪魔したか?」
突き刺すようなエヴァの三白眼に千雨がたじろいだ。なにかすごい邪魔をしてしまったようだと気付いたが、もう遅い。
「何でもない。それより何か用か」
「別に。下がうるさくなっただけだよ。それに、あんな人数で料理なんか作ったってしょうがねえし。隣、ちょっと邪魔するよ」
千雨がエヴァの隣の椅子に腰掛け、頭の後ろで手を組んで楽な姿勢をとった。
聞かなければ自分の気持ちが収まらない。夕飯が出来るまでの少しの間だけでも話を聞きたいと、千雨はエヴァのいる場所へ
やってきたのである。
「確か……感染は魔力の流れとか言ったよな」
「それがどうした。ザジの事が気になるのか?」
「まぁ、それもあるんだけど、でも、もしそうなんだとしたら、いいんちょも魔法使いって事になるのか?」
「いや。アイツの場合、中にいる中核の……まぁ、仮の居場所だ。それが魔力を持っていた。昔はそんな事なかったんだがな」
千雨がホッと胸をなで下ろし、先を続ける。
「そうか……じゃあ、ザジも……」
「それについては、ノーコメントだな」
「……どういう、意味だよ」
「私の口からは言えない、という事だ。直接本人に聞け」
「そんな……そんなの、答えてるようなもんじゃねぇか」
「知った事か。受け取り方はお前の自由だ」
千雨がしばらく顔を伏せた後、太陽が沈んで薄く紫色がかった西の空の雲を眺めた。
「じゃあ、あんたは……あんたは一体はなんなんだ」
「吸血鬼だよ。最強のな」
エヴァンジェリンは千雨を怖がらせるために凄んで見せたが、姿が姿なだけに、千雨は少し可哀想な気持ちになる。
「まぁ、オコジョやら人形が喋り出したらもう、何が来ても信じられるけどさ。それで、その最強の吸血鬼が何でこんな学校なん
 かにいるんだよ」
「話せば長い。私だって好きでこんな所にいる訳じゃないさ。……呪いだよ」
「呪い?」
千雨はまたファンタジーか、と現実感覚が揺らぐ感覚を覚える。
「あれはデタラメじゃあないのかよ。藁人形とか、黒魔術とか……」
「悪戯にテレビやネットの情報を信じるな。地球で噂されているものは殆どが嘘だ。本物ならそうそう表立って出てはこない」
「そうか……」
今まで散々見てきた、ネットに溢れている情報が本当だとしたら、これからは易々とそういうサイトを見るのも躊躇われる。
そうそう、ファンタジーはそうやって目立たない所にいてくれよ、と千雨は心の底から願った。
「で、エヴァンジェリンにかかってる呪いってのは、何なんだよ」
エヴァが大きな溜息を吐くと、千雨は自分が何か嫌な事を聞いてしまったんじゃないのか、と不安になる。そもそも人付き合い
が苦手な千雨にしてみれば、うるさいクラスメートはともかく、エヴァンジェリンのような高慢な性格は苦手な部類だった。
「この学園に縛り付けられててな。十五年もここでお勉強させられてるんだよ」
「十五年!? うっわ、可哀想〜」
「私に同情するな、人間。これでも幾百年は生きている。十五年など大した年月でもないわ」
「それじゃ、本当はもっと婆さんで、その体も呪いのせいで?」
「いや、これは……これは、違う」
エヴァがふっと顔を曇らせた。これは地雷だな、と即座に感じた千雨は、すぐさま話題を変えた。
「でも、そんなに生きてて退屈じゃないのか? 何かないのかよ。なりたいもの、とか」
「なりたいもの、か。ネットアイドルらしい尋ね方だな」
「なっ!! 何で、そっそれをっ!」
「吸血鬼はな、人間の頭の中が読めるんだよ。それで、一時期お前に興味があった時に、頭の中を覗かせてもらった」
「………」
「………」
「………」
「……その後20分ぐらい、人間について真剣に考えた」
「何だその不愉快はリアクションは」
エヴァが、隣に座っていた千雨の椅子の位置が少し移動している事に気付いた。
「ククク……距離を取れば逃れられるとでも思ったか」
「もしかして……今も読まれてるのか?」
「さあ、どうかな。もしそうならどうする? 急いでここから逃げ出すか?」
「うっ……」
千雨が後ずさって距離を取った。エヴァはその様子を楽しそうに見ながら、更に挑発を続ける。
「どうした、逃げ帰ってもいいんだぞ? 私は悪の吸血鬼だ。今すぐにでもお前の血を吸い尽くす事だってできる」

「……いや、別に……そこまで引きはしないけどさ」
千雨が椅子の位置を元に戻したのは、エヴァの物言い、というか声のトーンに、少しだけ彼女の持つ物悲しさを垣間見た様な
気がしたからだ。
どうせネットアイドルの事は知られているし、頭の中が読めるということは、今までだって人間の汚い部分を散々見てきた筈だ。
今更何を見られて怖がる事があるだろう。
エヴァが少しだけ目元を緩ませてみせた。何かを待っている様な、期待を込めた眼差しだった。
そんな目を見て千雨がプッと吹き出す。
「悪の吸血鬼が何で私達を助けてくれるんだよ」
「バカをいえ。私に魔力が戻ったら貴様らは全員、私の下僕になるんだぞ。私は人間に復讐する為に、闇の福音としてこの世界
 に返り咲き、人間共を跪かせるんだからな」
千雨は頬杖を突いてエヴァをまじまじと見つめた。人形の様な美しさと優雅さを兼ね備えた、見た目中学生とは思えない少女に
自分の姿を重ね合わせる。
全ての人間を自分の前に跪かせるという夢。方法は違えど、やろうとしている事は自分と一緒だ。
こんな事を思ったら怒られるだろうか。
「別に頭の中を読んだ訳ではないが、お前の言わんとしている事は判る」
「あっそう……。ククッ、しかし今時世界征服かよ……ククク……ショッカーじゃあるまいし……」
「貴様、笑ったな? このっ、クラス全員に貴様の本性をバラされたいか!」
「なっ、それは反則だろ!」
「うるさい! 悪の吸血鬼に反則もクソもあるか! ハッ、せいぜい3Aのガキ共に蔑まれるがいい!」
「みみっちい吸血鬼だなおい!!」
「黙れこのっ、現実に出ていく勇気もない小娘が!!」
暫くいがみ合いは続いたが、二人ともいい加減、下らなさに気付いて椅子に直った。
辺りはすっかり暗くなっていて、もう西の空に判別できるような色は残っていなかった。ベランダに付いている蛍光灯の明かり
だけが二人を照らしていて、木の葉のざわめきが漂う沈黙の後、千雨が先に口を開いた。
「……跪かせるだなんて、確かに下らないっちゃ、下らないよ。」
「私はそうは思わん」
「じゃあ、跪かせた後、どうするんだ? 女王暮らしでもするのか?」
「そうだな。まあ、邪魔者はまだまだ沢山いるし、探さなきゃならない奴もいる。誰かは教えないがな」
「ふ〜ん……」
再び会話が途切れる。しかし、二人共その沈黙は嫌いではなかった。ただ静かな場所が好きなエヴァと違って、千雨にはお互
いクラスで浮いた存在、という変な仲間意識が芽生えつつあった。
「部屋にあった人形、大分作り込んであったな。私も時々刺繍とかするから分かるよ」
「何百年と生きていればな。嫌でも極めてしまうモノはある」
「勉強はその内には入らないのな」
「当たり前だ。あんなつまらん物、一体誰が考えたんだか」
「それには同感だ」

エヴァが唐突に何かを思い出したように、千雨の方に向き直った。テーブルの上に顎を乗せていた千雨がその視線に気付い
て、視線だけをエヴァの方へ向ける。
「そういえばさっき、龍宮から謎掛けがあってな。あちらの世界には何か、決定的に欠けているものがあるらしい。見た目に関
 する事なんだそうだが、お前は何だと思う?」
「見た目……?」
千雨が腕を組んで、眉間に皺を寄せながら目を瞑った。暫く考えていたが、諦めたようにお手上げのポーズをする。
「さあな、普段クラスなんてマトモに見てないから、分からないな」
「使えん奴だ……」
「オメェも分かんねぇから私に聞いたんだろうがよ」
誰かが階段を上がってくる音がして、二人が振り向くと、ベランダの窓が開いて中からザジが出てきた。
「二人共……ご飯……」
エヴァがニヤリとして千雨の方を見た。『聞かないのか?』 そう告げている。
千雨は一瞬、迷うそぶりを見せたが、すぐに開き直って階段の方へと向かった。
「……いいよ、別にどっちでも。吸血鬼とも話ができた事だし」
ザジが不思議そうな顔で千雨を見たが、すぐに元の無邪気な顔に戻って、千雨の背中を押しながら着いていった。
いい加減な答えだ、とエヴァが少し呆れたような顔になる。
『どっちでもいい』 か。魔女裁判時代にはなかった考え方だな。そう考えると、それはそれでいいのかもしれない。
エヴァは安堵した様に小さく笑うと、ゆっくりと階段を降りていった。



日も没した夕空の下、砂利道を歩く二つの靴音が静かな林道にこだましている。
千草は結局、依頼人に祓いきれなかった、という旨を伝え、また何かあったら連絡を入れる、ということで同意してもらった。
依頼人はそもそもあまり気にしていなかったらしく、ああ、といい加減に返事をしたかと思うと、千草に依頼料を払ってその場
を後にした。
その帰り道の途中、刹那は例の、クラスで起きている事件の話を千草に聞かせ、感想を待っていた。
「難儀な事件どすなぁ……」
「ええ。私もまだ見てはいないんですが、龍宮によればかなり酷い様で……」
関西呪術が専門である千草ならば何か知っているのではないかと踏んで、3-Aの事件の事を話してみたが、思い当たる妖怪
や物の怪はいないらしい。少しでも道が開ければと思っていただけに、落胆せざるを得ない。
元々、京都弁が話せて式神使いの新人、という肩書きだけを頼りに来たが、まさか千草に出会うとは思ってもみなかった。呪
術に関しては新人ではない、という期待感を持ったのも事実だ。
「西洋悪魔特有の残忍さが浮き出てますなぁ。きっとこっちには幾ら探しても見つからへんと思いますわ」
「そうですか……。今だ、クラスメートがあちら側に閉じ込められているんです。魔法も何も知らない一般人ですから、早く助け
 てあげないと……」
「ホンマ、すんまへんなぁ。役に立てなくて……それで刹那はん、これからどうするつもりどすか?」
「確率は低いですが、感染した人と同じ部屋に寝て、感染者の暴走を待つしかありません。最も、向こうの方から移動用通路
 を塞いできたので、これ以上移動させる気はないと見て間違いないでしょうが……」
帰り道の途中、千草の頭の中にはずっと、先程出会った犬の顔があった。拭い去れない嫌悪感があるだけでなく、頭の隅に
大きな“引っかかり”があった。記憶に大きな蓋を被せている、といった感覚がある。
確かに、『妖怪』という形では見た事はない。しかし、犬の視線がどうしても気になった。ずっと昔に会った知り合いの様な視
線。犬の放つ眼光には心底ぞっとしたが、あの化け物の訴えかける様な視線には、何か懐かしいものを感じた。
いや、懐かしいからこそ、ぞっとしたのかも知れない。
龍宮神社の灯りが見えてきた頃になって、刹那がエヴァンジェリン宅へ向かうため、振り返って千草へ別れの挨拶を交わした。
「寄って行きますか? 戦った相手が勢揃いですよ」
「堪忍してぇな。これ以上寿命減らされたら、命がいくつあっても足りまへんわ」
悪戯っぽく笑った刹那に、千草が苦笑いで返した。
刹那と別れた後も、ずっと不安は拭い去れない。頭を振って子供達の顔を思い浮かべたが、すぐに黒い煙を頭の中に撒かれ
たように暗雲が立ちこめてくる。できればこの件には関わりたくない。関わってはいけない。
そんな警鐘と、彼女らに迷惑をかけた罪悪感が頭の中をぐるぐると回っていた。



「一部、料理とは思えないモノがテーブルに並んでるんだが……」
「明日菜さんの作った料理は見分けが付きやすくていいですわね」
「悪かったわね……」
「い、意外と美味しいかもしれませんよ!」
「アニキ、死に急ぐんじゃねぇ!!」
緊張の面持ちで皆が見守る中、恐る恐るネギが明日菜の作った料理に手を着けるが、スプーン一杯のジャガイモによってあ
っと言う間に卒倒した。
「ネギ先生! 死なないで!!」
「明日菜さん!! どうやったらジャガイモ一つで人が死ぬんですの!!」
「死んでないわよ!!」
周りの騒ぎを尻目に、エヴァがとっとと椅子に腰掛けて料理を口に運び始めた。食卓には洋から和まで、様々な国の料理が、
例外を除いて綺麗に並んでいた。これだけ多国籍の料理を作れたのも、食材と腕のいい料理人がいたからに相違ない。
「ん、このフォンデュは旨いな」
「それはザジさんが作った物ですわね。ザジさんは本当にお料理がお上手で……どこかの殺人シェフとは大違いですわ」
「誰が殺人シェフだコラ!」
「この鰤照りとピーマンの肉詰めもおいしいです〜」
「和食と中華はこのかさんが作ったんですよ。お味噌汁もすごくおいしいです」
「このフレンチ……は普通だな……」
「ぐ……」 フレンチはあやかが手掛けたものだった。普通の料理を 「普通」 と言えるのはエヴァと千雨ぐらいしかいないため、
いつの間にか二人は感想の指標となっている。
「何よ、あんただってそんなに上手いって訳じゃないんじゃない」
「う、うるさいですわ。中学生に簡単に作れる程フレンチは甘くないんですのよ!」
「でもこっちのフレンチは妙に美味しいですね〜」
「それは、ザジさ……」
本当の事を言おうとしたのどかの口をあやかが素早く塞ぐ。
「そ、そうでしょう。やっぱり分かる方には分かるんですわね。ホホホ……」
「あ、よく見たらフレンチじゃありませんでした……」
一同の冷たい視線があやかに刺さった。

明るい食卓に呼び鈴が鳴り響いた。エヴァが結界を解いて玄関を開けると、暖かい夜風と共に姿を表したのは、制服姿の
刹那だった。リビングから漏れてくる多国籍料理の香ばしい香りが気になる様子で、室内をなにげなく覗こうとしていた。
「何だ、夕食をたかりに来たのか?」
「いえ、少しお話しする事があって……」
「あ、せっちゃんや〜。せっちゃんも一緒にご飯食べよ」
「いえ、別に夕飯を食べに来た訳では……」
「話なんて食べながらでええやん。ほら、狭いけど上がってや!」
「狭いのは誰のせいだ……」 エヴァが愚痴を零す。
このかに手を引かれた刹那が、恥ずかしそうにリビングに連れられ皆と顔を突き合わせた。お互いに挨拶を交わし、ブレザ
ーを脱いで近くにあったハンガーに掛けると、エヴァの隣の椅子に腰掛けた。テーブルの上に並んだ料理の、分量の多さと
見た目の派手さに目を丸くしつつ、料理に手を着けようとしたが、部屋の隅の重い空気が気になって誰にともなく尋ねた。
「あの、あそこで沈んでいるいいんちょさんは……」
「飾りだと思って」
和食の好きな刹那は、真っ先に木乃香の作った魚料理を口に運んで舌を巻いた。刹那に絶賛されたこのかが顔を赤くして
照れている。
「なんや、せっちゃんに誉められると嬉しいわ〜」
「お、お嬢様が、これを……?」
「そうですよ。他のも美味しいんで、食べてみてください」
「お嬢様の手料理……お嬢様の手料理……お嬢様の……」
「あうぅ……聞いてない……」
暫く夕食の時間を楽しみ、料理も残り少なくなってきた辺りで、刹那がエヴァに用件を伝えようと口を開いた。
「そうだ、エヴァンジェリンさん、移動の失ぱ……痛っ!!」
「後にしろ。メシが不味くなる。まぁ、一部これ以上不味くなりようのない物もあるがな」
「しつこいわね……」
エヴァに思い切りつねられた尻をさすりながら、刹那が弱々しい返事をした。幸いつねられた痛みよりも、木乃香の作った
手料理を食べられる喜びの方が勝っていた。
「移動に失敗した事は黙っててやれ」
「まだ言ってなかったんですか!?」
「そりゃあそうだ。騒がれては面倒だからな」
小声でそんなやり取りが続いたが、周りの騒音のせいで、内容を聞き取れる者はいなかった。それよりも刹那が驚いたのは、
なんだかんだでこの大人数をエヴァが楽しんでいる事だった。折角のお嬢様の手料理があるというのに、水を差す様な事を
言っては忍びない。今はこの手料理をゆっくり味わおう、と食事の手を進めた。
「つうか和食ばっか喰うなよオメー!」
「あ、す、すいません」
九時を回ると、エヴァが明日菜とこのかを自宅に帰した。バイトのある明日菜も、刹那に説得されたこのかも渋ってはいたが、
あまり抵抗を示さず、結局帰宅する事になった。
玄関から送り出す時に、エヴァの退屈しのぎに参加できた事が嬉しかったのか、木乃香はエヴァの顔を見て満足気に頷きな
がら別れの挨拶を交わして夜道に消えていった。もしかしたら、エヴァは最初から木乃香達を返すつもりだったのかもしれな
いな、とエヴァの表情を見ながら刹那はそんな事を思った。

夜が更けていく。
柿崎さんは今どうしているんだろうか。無事に眠りに就けているだろうか。それとも……
深夜も十二時半を回り、広間で来客用の布団を敷いて皆静かに寝息をたてる中、刹那とエヴァだけが窓から差し込んで来る
月明かりに照らされながら、じっとその時を待っていた。
「お前ももう寝ろ。せっかく移動できても睡眠不足だと体力が落ちるぞ」
「一晩ぐらいなら大丈夫です。しかし……十二時を回っても来ないとなると……」
「別にぴったり十二時である必要はない。委員長の暴走の時だって、十二時を過ぎていたらしいからな」
二人に一番近い布団がもぞもぞと動き出して、中から誰かが顔を覗かせた。
「ふ〜ん。やっぱり本物か」
「長谷川さん!?」
「起きていたか……まぁお前にとってまだ寝るには早いか」
「いつまでも桜咲がいるからおかしいとは思ったんだよ。でも、今日はもう移動はないよ。……多分だけどな」
「ザジに聞いたのか?」
「ああ。あたしにだけっていう約束だったけどな。もう起きてても意味ないぞ」
刹那の眉間に皺が寄った。意味の無い行為。私がここに来たのは全くの無意味だったのか。
「それは……本当に確証のある予測なんですか?」
「百パーセントではないけど、かなり当たる。まぁ今回は、ほぼ当たりだろうな」
千雨がメガネを掛けて質問を続ける。
「もっと詳しく聞きたいんだ。そっち側の世界をさ。今の敵はどれぐらいの敵なんだよ? 今までとは違うって言ったけど、
 一体どれぐらい違うんだ?」
「まぁ、そうだな……FF[で言うと、アルテマウエポンだと思ったらオメガウエポンだったようなもんだ」
「FF[で例えるにしても、それはひどい」
「ゲームの事はよく解りませんが、酷い状況なのは確かです。エヴァンジェリンさん、何か、明日の対策はあるんでしょうか」
「資料も何もない中で私に聞くな。今きっとじじぃが必死こいて方法を探しているだろうよ。しかし長谷川、お前は今までよく
 無事だったな。私にはそれが不思議でならない」
千雨が少しどもった。自分にとっても、あのクラスで起こっている出来事を無視し続けたのは、あまりいい思い出ではない。
しかし、上手い具合にターゲットにならなかったのは、千雨も不思議に思っていた。どんなに木乃香に従っていても、十分
標的にはなりうる。だから、あのクラスで自分だけが避けて通れた事に、説明に足る言葉はない。
「私にもよく分からない。ちゃんとアイツらに従ってたからなのかもしれないし……」
「しかし、これからはそれでは通用せんぞ。お前はあちら側に回ってはならない。被害を広げるだけだからな」
分かってる。そんな事は分かっている。でも……
「私は、アンタらみたいな超人じゃないんだ。足だって遅いし、力だって弱い。いいんちょが来た日は助けがあったからいい
 けど……もし、そうじゃなかったら……そんな自信はない」
下弦の月は、相変わらず室内に灯りを必要としない程、明るい光を落としていた。
三人の間を、霧の様に重苦しい沈黙が包み込む。皆が皆、違う思いを抱きながら、誰かが喋り出すのを待っている。
「ならば、こうしよう。柿崎は一般人だ。もしあいつがあっち側に従う事なく無事に戻って来たら、お前も少しは勇気を振り
 絞って抵抗してみせろ。そうでなかったら、お前の好きにするがいい。虐めにでも何にでも、自由に参加しろ」
千雨がうなだれて黙り込んだ。
私にはそんな勇気はないんだ。現実で誰かと戦うなんて……リセットもできない。別人にもなれない。そんな世界で、一体ど
んな勝ちが残されてるって言うんだ。
「正直、無理かも。いや……無理なんだ。私、現実で戦うなんて……」
エヴァが諦めた顔で窓の外の月を眺めた。やはり一般人には話は通じない。どうして人は、こうも弱いのか。集団を伴うのか。
エヴァは、年月を経ても変化しない肉体を持った頃を思い出した。
私は死ぬ事すら許されず、常に追ってくる集団を迎え撃った。逃げても逃げても、追ってくる。逃げ場が無くなっても。
そして、闘うことを決意した。決意せざるをえなかった。
もし私が、あの時不死の肉体を持っていなかったら、逃げていただろうか。肉体の束縛から。
深夜も二時を回り、三時を回り、最早移動を期待するのも虚しかった。
柿崎が一人、取り残される事が確定する。


「超さん、これ、残りの資料……」
「ん、そこ置いといてネ。それから、年上のくせに『さん』付けは止めるネ」
「いやぁ、超さんにはいつも教えてもらってばっかりで、なんだか申し訳なくて……。それじゃあ、僕は帰りますけど、超さんは
 まだ残るんですか?」
「うん、まだ暫くはここにいるヨ」
「そんなに一人で無理しなくても、明日なら暇な研修員とか結構いますから、僕達でやっときますよ?」
「いや、残りはそっちに頼むヨ。私はまだ別にやる事があるからネ」
「……そう、ですか。それじゃあ、僕は先に帰りますけど……」
「まだ何かあるカ?」
「いえ……あんまり無理しないでくださいよ。超さん、今日なんか疲れた顔してたから」
夜も遅くなり、気温も大分下がった研究室内は、少しだけ肌寒かった。
廊下の足音が消えたのを確認した超は、室内にあるパソコンの電源を落した。辺りはしんと静まり返っていて物音一つせず、
狭い部屋を照らし出す蛍光灯は、半分以上が今にも消えそうな頼りなさげな光を保っていて、以前誰かに替えておけと言った
のを思い出した。あの忠告は誰も聞いていなかったのだろうか。
超は電源の落ちたパソコン画面に映った自分の顔を、まじまじと見つめた。
そんなに疲れた顔をしていただろうか。常に自信を持ち続けていれば、信念を貫く事は難しくはない。だから、誰かに見ても
らうための疲労した表情は、他人に対する甘えだ。そう心の中で自分を戒め、甘えた表情を出さないよう努めてきた。
パソコンから少し離れて、割と綺麗な方のテーブルへ、ローラーの付いた椅子ごと移動する。綺麗といってもやはり研究資料
は山積みで、あまり心地の言い空間とは言い難い。かろうじて空いているスペースに立てた両手の上に顎を乗せ、吸い込ん
だ息を大きな溜息として吐き出すと、ようやくリラックスすることができた。
こちら側に帰ってきて早々から相手の目的について考えを巡らせていたが、ある結論に至ると、それがどうしようもなく重い事
実になってのしかかってくる。
私はここで死んではならない。最終目的のために、私は何としてでも生き残らなければいけない。もし、敵の目的が世界の混
乱、あるいは特定人物の人格崩壊だとしたら……。私が敵だったとして、何をするか。
もし、その仮説が全て正しかった場合、私は誰かに気付かれる前に 『本物である彼女』 を殺さなくてはならない。


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