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「勝てるさ。必ず。どんな絶望的な状況でも、必ず勝機はどっかに隠れてる」
「どうしてそんなことまでして、勝つ必要があるのさ。僕がやられていればいいだけの話だろ? それで万事解決する」
「お前、何もしないでずっとやられ続けて、それで本当に終わりだとでも思ってんのか?」
「そうだよ。だって僕以外の誰も傷つかないじゃないか」
「それを見て傷付いている奴や、恐怖感を募らせてる奴のことはどうするんだ?」
「どうして僕がそんな人のことまで考えなきゃならないんだよ!!」
「お前は結局、誰も助けてなんかいないんだ。それにな……」
『彼』は言葉を切って、僕の方をじっと見つめた。僕が今まで信じてきた“自分だけが傷付けばいい”という、ある種の
信念の様なものが崩れ去りつつあった。『彼』は言葉を続ける。
『自分と同じ顔をした奴が、誰かを傷付けているなんて、そんなの嫌だろ?』
*
『ドアが閉まります、扉にご注意下さい』
慌てて読んでいた本を閉じて、電車から降りた。まさか本を読んでいて乗り過ごすだなんて思ってもみなかった。
それぐらい、面白い。
駅のホームに棒立ちになりながら、のどかから借りた本の表紙をしげしげと眺めた。文章を読むのがあまり好きな
方ではなかったのに、何故この本にはこんなにも惹かれるんだろうか。
「よっ、亜子っ!!」
「わっ! 柿崎……さん……に、長谷川さんまで!?」
「“まで”ってなんだよ“まで”って……」
いつもは仲のいい3人組で登校している筈の柿崎が、今日は千雨と一緒だった。チアの二人がいないのは、やはり柿崎が
標的に選ばれてしまったからだろうか。
「電車の中で見つけたんだけどさ、亜子、ずっと熱心に本読んでたから、ちょっと声掛け辛くて」
亜子が恥ずかしそうにして顔を伏せた。別に、本が趣味という訳ではないのに、自分の趣味、というか内面が露呈してし
まった事が恥ずかしくて、それを隠す様にして本を顔の前に当てた。
「ん、何読んでたの?」
「い、いやっ、これはその、別に何でもないよ」
慌てて本を鞄の中に仕舞った。この本自体は確かに面白いのだが、内容がまるで現在の自分の状況をなぞらえている様で、
人に見せた途端、“人生の参考書”の様な役割を、この本が果たしている、と誤解されてしまうのは、非常に恥ずかしい。
「隠す事無いじゃない。見せてよ、ちょっとだけ、ね?」
「い、いや、これはその、ちょっと、アカンって!」
柿崎がのしかかるようにして亜子の鞄の中に手を延ばしたのを、千雨が制止する。
「ったく……人が隠そうとしてるもんを勝手に見ようとするなよ……プライベートだろ」
柿崎はおふざけのつもりだったが、何だか多数決で自分が負けてしまったような気がして、渋々引き下がった。
「まぁ……プライベートに爆弾抱えてるあんたがそう言うんなら、仕方ないか……」
「ちょっと待てそれどういう……」
「あっ、き、昨日は、ありがとぉな。うちのヘタクソなお喋りに付き合ってくれて」
「なんのなんの。長谷川も手に入れたことだし、これで新トリオ結成だね!!」 自信たっぷりに柿崎が胸を張る。
「“手に入れた”とか言うなよ……」
学校にまで来て、こんなに仲良く喋っていてもいいのだろうか。自分のせいで、チア3人がバラバラになってしまったの
ではないか。そんな自責の念が暗雲のように充満し、恐る恐る柿崎に声を掛けた。
「美砂ちゃん……昨日、円ちゃんの態度、素っ気無かったやろ? 今、多分美砂ちゃんが、かなり睨まれとる。今からなら
まだ間に合うかもしれへんから、学校ではウチのこと、無視しとった方がええよ。ごめんな、本当に……うちのせいで……」
柿崎の表情が変わり、怒らせてしまっただろうか、と激しく後悔していると、ずいと顔を目の前に寄せてきた。
「あのさあ、何で亜子のせいなのよ!? 亜子のせいなんかじゃないし、そんな事言ったって意味ないでしょ? 今度から
『ウチのせいで』とか、そういう自虐的な言葉は禁止ね。全面禁止」
「全面禁止?」
「そう、全面禁止」
その日本語が正しいのかどうかは分からないが、柿崎は気にせず続ける。
「あたし達はもう人生道連れなんだから。自分だけが苦しんでれば何もかも解決すると思ったら大間違いよ。判った?」
「あ……ハイ……」たった今読んでいた本の内容と同じ事を言われて、はっとする。
「達って……私は入ってないよな……」
千雨がぼやいたのは、柿崎が遠慮なく無視していた。
「さて、昨日喫茶店で亜子から聞いた話をまとめると、つまり私達は二人いるってことでいいの?」
「昨日のどかから聞いた話によると、多分そうや。美砂ちゃんの知ってる3A側と、うちらの今いる3Aや」
「そんで、何かの拍子で、時々人が入れ替わる、と」
「うん。最初に気付いたんは三日前の、いいんちょと、ザジさん、エヴァちゃん、茶々丸さん、それに長谷川さんもそう
やった。何か、いつもと違ってその5人だけは優しかったんや。いや……違うなぁ……」
亜子は少し考える様に指を鼻の下へ持ってゆき、「長谷川さんとザジさんはもっと前から優しかった。うちが初めてやら
れた時も、二人だけは誰もいないとこで声掛けてくれててん」
「あら、意外といいとこあるじゃない」
柿崎の言葉に照れたように、千雨が恥ずかしそうに顔を背けた。
それは大きな誤解なんだ、と口に出す勇気はなく、千雨は口ごもる。
自分はいつだって、ただ助かりたいだけだった。まき絵のレオタードを燃やした事もある前科者なのに、亜子の前では優しさ
を振りまいていた。何故だろうか。多分、良く見られたいからだ。
「クラスには全く無関心だと思ってたのに」
「う、うるせぇ」実際、クラスが豹変するまではそれなりに無関心だった。
「ほんで、えっと……三日前がさっき言った五人や。で、その次の日、何故か突然エヴァちゃんが狙われて、途中から超りん
が助けに現れたんや。超りんも突然変わったなぁ……。で、茶々丸さんと闘って、その日は午後になっても戻ってこんかっ
たから、えらい心配したけど……。それから次の日が、昨日、つまり、龍宮さん、のどか、いいんちょ、と、美砂ちゃんで、
昼休み中、エヴァちゃんと超りんが戻って来たんやな。そういえばエヴァちゃん、あんだけ怪我しとったのにすっかり治った
みたいに平気な顔してたなぁ……」
二人とも難しい顔で考え込んでいる。本当は魔法の事を話してしまえば、信じる信じないは別にしても、ある程度説明がし易く
なるのかもしれないが、のどかとの約束を破る訳にはいかない。ネギ先生がオコジョになってしまうのは、嫌だった。
「しっかし、気持ち悪い話だな……自分がいたとか、いないとか……。私にはそんな記憶ないんだけどな」
「でも、何でのどかはそんな事知ってるんだろうね?」 柿崎が疑問を口にする。
「せっ、せやなぁ……」
「あいつも何かおかしいんだよな……人の頭の中読んだのかって思える程、相手の考えてる事言い当てるし……」
「ん? 亜子、どうかしたの……?」 亜子がしどろもどろになっているのを見て、柿崎がそう尋ねた。
「なっ、なんでも、あらへん……」
「まぁ、とにかく、今の3Aを今までみたいに戻しちゃえば、万事解決! って事だよね?」
「せやな……その通りや……」
「そんな簡単に戻るかっての」
「それで、昨日のバンドの話の続きだけど……」
のどかの起爆装置 ( Reflection )
教室内に入ると、のどかと目が合った。昨日の様な迂闊な失敗はしない。と誰にも声を掛けずに自分の席へと向かったが、
誰かの視線を感じて前方を見やると、いやらしい笑みを浮かべたのどかが、ずっとこちらを見続けている。足を組んだまま
肩肘を突いて、何処の国のものか分からない本に視線を落としながら、にやりと笑う。
背中を寒気が襲った。のどかは本を読んでいるだけなのに、自分の体温が下がっていくのがはっきりと分かった。
気味が悪い。
のどかは読んでいた本を閉じて、唐突にこちらの名前を呼んだ。
「柿崎さん」
「なっ!……なに、何か用?」気圧されてはいけない。こちらも強く出る必要がある。
「昨日の威勢はまだ残ってますか?」
クラスの冷ややかな視線が二人に集まる。毎朝続くこの一声が、クラスの方針を決める集会になりつつあった。リーダー、
あるいはその側近がターゲットを仄めかし、皆をそれに従わせる。そしてその瞬間、標的は確定する。
亜子の顔に焦りの色が浮かび上がった。
柿崎は冷や汗をかきながらも、笑い返す。ここで負けてはいけない。無理矢理にでも語気を強めて返す。
「そ、そりゃあもう、楽しくてピンピンしてるわよ! で、私に何か用?」
のどかはその問いには答えずに本を閉じて、このかの元へと歩いて行ったかと思うと、何やら耳打ちし始めた。
震えが体を襲う。そんな柿崎の様子を見た隣の龍宮が、つまらなそうな顔で鼻を鳴らし、一言『ご愁傷様』とだけ言った。
斜め前のアキラは振り返って、哀れむ様な表情でこちらを伺う様子を見せたが、視線が合うとすぐに目を逸らして正面に向
き直るだけだった。
クラスのほぼ全員が敵。その実感はじわじわと心を蝕んでゆき、不安と後悔が脳裏を支配し始めた。
始業時間ぎりぎりに登校してきた事が、唯一の幸運と言えるかもしれない。
「今日の欠席は、茶々丸さん……珍しいですね。茶々丸さんが休みなんて。ハカセさん、メンテナンスですか?」
「いえ、ちょっと……その、問題が起きてしまって……」
「そうなんですか。機械といえど大変ですね。え〜っと、他には、エヴァンジェリンさんか。困ったな〜、またサボりですか?
あの人は。後で注意しておかないと……」
授業は私を追い立てるように、静かに進み始める。
授業中、前から回ってきた紙には『いらない指はどれ?』やら『綺麗な赤いマニキュア知ってる』とか、気味の悪い文章が羅列
してあって、不安を掻き立ててくる。恐怖感に負けまいと、小声で歌を口ずさんだ。
「柿崎さん、さきから何ブツブツ言ってるんですか?そんなに英語が得意なら、全部答えてもらいますよ?」
「えっ、いや……その……」
どう答えてよいか迷っていると、亜子がネギの注意を引くように大げさに立ち上がって、言った。
「あ、センセェ? う、うちが答えるわ」
「そうですか。では、和泉さん、ここから最後まで全部和訳してください」
「さ、最後……?」
「どうしたんですか? やりたいんでしょう? できないんだったらずっと立っててもらいますよ」
語気を強めたネギの、威圧的なプレッシャーに、亜子が怯え出す。
「ちょっとネギ君! 全部なんておかしいでしょ!? まだ単語も終わってないのに!」
「何言ってるんですか。予習復習は当然やってきてるでしょう? 僕は、和泉さんがやりたいって言ったから指名してあげた
んですよ。それに柿崎さん、先生に向かって君付けってどういうことですか。礼儀もちゃんとしてないみたいですね……」
「そんな……滅茶苦茶じゃない……」
敵はクラスメートだけではない。今更それに気が付いた。覚悟が足りていなかったのだ。
十二時を過ぎ、午前の授業終了を知らせるチャイムが鳴った。水の入ったバケツを持ちながら廊下に立たされていた二人は、
溜息と共にその場にへたり込んだ。
「終わった……」
「美砂ちゃん、ごめん……」
「それは無しって言ったでしょう?」これ以上は敵を作りたくない、と本能的に語気が弱まる。
「あ、せやったな。でも、ほんとにうちが余計な事せんかったら……。美砂ちゃん、あのままずっと黙ってたらよかったのに」
「だから、そうやって自分ばっかり責めないでよ。あたしにだって反抗する権利ぐらいあるんだから」
『お前、何もしないでずっとやられ続けて、それで本当に終わりだとでも思ってんのか?』
のどかから借りた本の主人公が、頭の中で囁いた。
あの言葉は、本当に正しいのだろうか。納得できないわけではないが、しかし、だからといって、もうこれ以上自分以外の誰か
が傷付くのは見たくない。
二人でバケツを片づけた後、教室の中に入った。自分の席に鞄を取ろうと、柿崎が足を進めた瞬間、何者かに後ろから羽交
い締めにされた。
「何するの!?」 柿崎が背後の相手を怒鳴りつける。
机に俯せに倒されたかと思うと、右手は背中で固められ、左手首を掴まれて、机の上に指を広げられた。
柿崎には確認できなかったが、亜子は教室の隅で刹那に取り押さえられている。
「今日は大サービスや。ウチの質問に答えてくれたら、許してあげるえ」
「な、何よ……」
目の端で明日菜の橙色の髪を確認した。さすがに力で抗う事は不可能だと悟る。
「最近、ウチのクラスがおかしいんや。美砂ちゃん、何か知らへん?」
知ってるわけがない。はじめからそのつもりで聞いているようにも受け取れる。
「し、知らないわよ! おかしいのはあんた達の方でしょ!? どうしてこんなクラスになっちゃったの? ついこの間までもっと
明るかったじゃない! みんなで普通に笑って、騒いで……何なの、このクラス? こんなの、3Aなんかじゃない!」
「そんな事聞きたいんやないんよ。質問にだけ答えてな?」
右腕があらぬ方向に曲げられ、痛みが走る。耐えきれなくなった柿崎が叫び声を上げた。
「やめてぇや……お願いや、うちならいくらでもやってええから……美砂ちゃんだけは……やめて……」
刹那が亜子の口を塞いだ。刹那の顔にも、最早迷っている程の余裕はない様子だった。
「面白いといえば面白いんやけど……でも、邪魔までされるのも何か嫌やん。やから、せめて何が起きてんのか聞いておこう
思てな。本当は聞かなくても、調べればすぐに分かるんやけど。せやから、嘘吐いてもすぐにばれるえ?」
のどかが本を開いてニヤリと笑った。のどかは確か、頭の中を読むのが得意だと聞いた。本当なのだろうか。
その疑問を見透かしたかの様に、のどかが言った。
「試しに一つ、嘘を吐いてもいいですよ?」
「本当に何も知らないってば! 私だってこんなクラス嫌よ! 何が起きてるのか知りたいわよ!!」
のどかが手元の本に顔を落とす。少ししてからこちらに向き直って、
「昨日、亜子に色々と聞いたらしいじゃないですか。当たってるでしょ?」
友に使うための、名の呼び捨てとは違う、軽蔑と侮蔑の籠もった響きでのどかは亜子の名前を出した。
柿崎は驚きの色を隠せない。これじゃまるで、魔法じゃないか。
机には、左手の指が広げられている。ギターを弾くための、大切な指。これからそこに、何をするつもりなのか。
「知らない……知ってたって……言わない」
震えが襲い、まともに声を発するのも難しい。そんな柿崎の怯え方を嘲け笑うかの様に、このかが口元を歪める。教室に響く
のは、逃げる事もままならない、やるせないだけのクラスの沈黙と、亜子の呻く声。
「反吐が出ますね……庇ってるんですか? ご褒美は何も出ませんよ」
木乃香が懐から、怪しげな器具を取り出す。筒状の、黒光りする五本の棒。丁度、人の指が入りそうなサイズだった。それが、
広げられた柿崎の指にセットされた。
「じゃあ、こっからが本番や。美砂ちゃんは、何を知ってるん? あと10秒で答えてや」
柿崎が目尻に涙を浮かべる。無意味である事は分かっている。ただ、負けてはいけない。結局昨日の会話は知られてしまう
んだろう。では、自分は、一体何と引き替えに、激痛を得るのか。
柿崎の発した叫びに、皆目を瞑って、ひたすら耐えていた。
「イマイチよく分からへんな……やっぱり、亜子に聞くしかないみたいやね」
二人が、涙で顔をくしゃくしゃにした、亜子の方に向き直った。
亜子は既に絶望していた。自分は何も守れていない。どんなに抗っても、どんなに自分を犠牲にしても、結局、救えるものは
何一つない。
「のどか……なんでや……なんで、そんな風になってしもたん……」
心の中が筒抜けになるのを感じながら、それでも訴える。
「のどか、本が大好きなんやろ……どうして、本をそんな事に使えんねん……」
のどかは本が大好きな筈なのに。こんな私に、本を薦めてくれるぐらいに。
「あぁ……そういえば、魔法の事、秘密なんやったっけ……あかんわ……頭ん中読まれたら……」
秘密が……約束が……
「おかしな話やな……のどかから聞いたのに、のどかにも秘密やなんて……ネギ先生、オコジョにされてしまうんやろか……」
私の頭を覗いているのどかの顔が、みるみる恐怖に歪んでいく。
「あれ……のどか、なんでそんなに青褪めてるん……? 木乃香ちゃんも、どうしたんや、そんなに目ぇ丸くして……」
頭の中に、主人公の声がこだまする。
『勝てるさ。必ず。どんな絶望的な状況でも、必ず勝機はどっかに隠れてる』
のどかの仕掛けた起爆装置が、機能し始めた。
その亀裂は大きな歪みとなり、やがて世界をひっくり返す。
Panic attack
「どうして……アンタが……嘘……何言ってるの……?」 全身を震えが包んだのどかに、木乃香が声を掛ける。
「やってしもたな……のどか……ネギ君、呼ぼうか」
のどかの顔はみるみる蒼白になり、本が音をたてて教室の床に落ちた。
「嘘……嫌……嫌……イヤァ!!」
クラスからの不信な目と、未来の自分を想像したのどかは、耐えきれなくなり、頭を抱えて発狂しながら廊下の外へと走り出
した。
刹那に解放され、手足の自由になった亜子が、急いで柿崎の方へと駆け寄る。筒状の器具を放り出し、柿崎の指を自由に
したのはいいが、亜子は柿崎の青ざめた指を見て思わず目を逸らした。
気を失っていた柿崎を放っておく訳にもいかず、保健室に連れて行くために背中に乗せて、そのまま教室を出ようとした。
「誰が出ていいて言うたん?」 静かな声で諭す様な木乃香からの声を、背中に受け止める。
ビクリ、と背中が縮み上がった。未だ、私の心を支配しているのは、絶望と恐怖。
のどかは一体何をしたのか。これは、もう一人ののどかが仕組んだ出来事なのだろうか。
考えてる暇は無い。木乃香の言葉を無視して、走って教室を出る。
うちにはこれぐらいしか出来へん。のどか……これで、何が変わるん? あれは、違うのどかなんやろ。そしたら結局、
のどかは自分以外の誰かを傷付けてるんと変われへんやないか……うちはそんなこと……できへん)
『それを見て傷付いている奴や、恐怖感を募らせてる奴のことはどうするんだ?』
うちはそんな器用やないねん。お話の中みたいな、そんな理想はあれへんねん。
柿崎を保健室のベッドに寝かせると、デスクに向かって何かを記入していたしずなは、こちらを振り返って、悲壮感漂う顔を見
せてきた。ここ数ヶ月で、3Aの怪我人をどれだけ見てきたことか。いつも保健室に運ばれてくる3Aの生徒だけは、他のクラス
とは怪我の質が違った。しずなもまた、自分の無力感に苛まれている人物の一人だった。
「大丈夫……使えなくなる程じゃないわ。でも……痛かったでしょうに……」 柿崎の手を優しく包みながら、しずながそう言って
慰める。
「せんせ……美砂ちゃん、頼むわ……」
「和泉さん、どこに行くの……? ここなら安全よ。みんなが帰るまで、ここで待っててもいいのよ?」
「うち……うちな、のどかを助けに行かな、あかんのや」
「あなた、いつもそうやって傷だらけになって帰ってくるじゃない。もういいのよ。あなたは、傷付かなくても……もう十分良くやっ
たわ……」
しずなが亜子を抱き留める。どうして大人である自分が、こんなにも無力なのだろうか。学園長の娘といえど、ここまで権力を
振り回していい筈がない。なのに、どうして自分は何もできないのか。
「ごめんな、しずなセンセェ。でも、止まってても何も解決できへんねん」 亜子がしずなを引き離す。「うちは、友達信じて、考え
て、待つしかないねん」
うちはのどかに助けられた。せやから……うちも、のどかを助けなあかん。
何も解決しなくても。ただがむしゃらに走ってるだけだとしても。
あの時のお礼をしなきゃ。
亜子は保健室を出て叫び声のする方向へと駆け出す。
のどかと、のどかが教えてくれたあの本を信じて。
*
どうして私が……どうして私が……
完全なる錯乱状態に陥っていたのどかは、自分の体力の事など、とうに頭の中から消え失せていた。例え心臓が張り裂けよう
とも、追いつかれてはならない。先の事なんてどうでもいい。絶対に、捕まってはならない。逃げる。ただひたすら逃げる。
ホール内を走り回り、どこへ逃げれば助かるのかも考えていない。助かる場所など無い事は、理解していた。全ての足音は自
分の敵。止む事のない足音。いくら人の心が読めたとて、自分一人では余りに無力だった。
和泉亜子が嘘を吐いたのではないか、という推測もできるが、しかしそれこそが、のどかの持つ能力を理解していたという結論
に辿り着く。
もはや、学校内には当たり前の様に足音が響く、という事実でさえ、頭の中にはない。誰もが自分を追っている。
発狂しながら校内を走り回る自分へと向けられる、不信な目。私が疑われている。そんな誤解が頭を支配する。
違う。私じゃない。私じゃない。
のどかは気が付いていなかった。既に校舎内を一週して、元の教室に戻って来てしまっている事に。
「あ……アス……明日菜……明日菜、さん……」
方向転換して明日菜を振り切ろうとするが、クラスで1、2を争う明日菜に脚力で敵う筈もない。あっと言う間に追いつかれ、腕を
がっちりと掴まれる。
「残念だったわね。もう、逃げられないわよ」
のどかの背中に衝撃が走る。痛みがない。痛過ぎて何も感じないのか、恐怖感から、全ての感覚が麻痺してしまったのか。
再び掴まれる腕。
「逃げるで、のどか!!」 亜子の声が耳の中に染み込んできた。不思議と、胸の内が安堵感に覆われる。こうなったのも全部、
亜子のせいなのに。
*
発狂したのどかを両腕に抱えながら、全力で逃げた。恐らく、後ろから体当たりを喰らった明日菜は、相当怒り狂っているに違
いない。差はほんの十数メートル。おまけに人一人抱えていては、到底明日菜から逃れる事はできない。
しかし、あてはある。双子がよく使っている秘密の通路が保健室の階段前にあった筈だ。そこでやり過ごすしかない。ホールを
全速力で横切って、生徒の隙間を縫いながら直進する。すぐ後ろからは明日菜。あと数メートル、あと数歩。
「惜しかたアルネ」
「古……ちゃん……」
保健室手前の階段から降りてきた古菲が、亜子達の行く手を塞いだ。何者も通さない様な堂々とした構えに、威圧感を覚える。
「亜子、ごめんアル……。でも、ワタシだって……もうあんな惨めな思はしたくないアル」
「クーちゃんも逃げたらええんや! ウチと一緒に逃げよ。もう、こんなん繰り返したらあかん……分かるやろ?」
「何言てるアル。ワタシでは、真名にも楓にも……刹那にも勝てない……逃げるなんて無理アル」
両目をギラつかせた明日菜が、背後で殺気を放っている。階段の上には、龍宮と、刹那。
あと一歩、及ばなかった。
「やっぱりあかんか……。せやな。当たり前やん。こんなん……無理に決まっとるわ。逃げ切れる筈なんか、ない……」
諦めが押し寄せる。やはりここまでか。
亜子は唇を噛んで、自分の無力さを悔やんだ。せっかくのどかが作ってくれたチャンスを、みすみす無にしてしまった事に対す
る申し訳なさで、やりきれない思いが沸き上がる。もっと頭が良ければ。もっと賢く立ち回る事ができたら。
諦めかけた亜子の耳に、威勢のいい声が響いた。人を応援するような、優しくて、力強い声。
「うぉぉぉおおおありゃあああ!!!」
「美砂ちゃん!?」
保健室から出てきた柿崎の体当たりが、再び活路を切り開く。
*
「美砂ちゃん。がんばって。もう少しだよ」 桜子の声だ。
「もう少しって……何が? そういえば、なんか桜子の声、久しぶりに聴いた様な気がする。やっぱ桜子って、いい声してるね。
なんていうか、元気がでる」
木々のざわめきが微かに聞こえてくる。真っ暗で、藍色一色に染まった深い森に、視界一面覆われていた。
桜子の声はどこからともなく語りかけてきて、ぐるりと辺りを見回すと、3匹の子狸がこっちを見ていた。
子狸達は、各々手に木の欠片を持っていて、目が合ったかと思うと、それを打ち付け始めた。
こんこんこんこん……
その音を聞いた瞬間、柿崎に立ち眩みが襲った。記憶が引っ張り出されるようにして、次々と再生される。
「おい、柿崎が裏切りやがったぞ」
「今度はアイツをハブろうぜ」
「今まで私達と一緒になって桜子虐めてたくせに、なんで釘男と付き合ってんのよ」
「調子良すぎるよね〜」
「みんな、おはよう」
「……」
「……」
「……」
「……」
いつもヘラヘラと笑ってばかりいた桜子は、とろくて、運動も勉強も駄目で、更には内気で何も取り柄のない子供だった。言っ
てしまえば、いじめのターゲットになりやすい体質だった。桜子とは正反対だった自分は、比較的誰とも仲が良く、交友関係を
無難に乗りこなす活発な子供、といえた。だからこそ、そんな自分の立場を崩したくなかった。
当時、ゆとり教育という言葉も表だって出てきていない世代、子供達は受験から来るストレス発散のため、小学校でもいじめ
は頻発していた。柿崎のいた小学校も例外ではなかった。
“いじめ、格好悪い”という謳い文句は散々聞かされてはいたけれども、格好いいと思ってやる者などいない、という事実は、子
供達なら誰でも知っていたし、ならばどうやって切り抜けるのか、という疑問に明確な答えを教えてくれる大人は、一人としてい
なかった。私は無難に切り抜ける方法しか知らない。だから、自分が“やる側”に回るのは、当然の事に思えた。
「え〜っと……その……」
私は放課後、何故か円に説教を食らっていた。
「ほら、謝るの。当然でしょ?今まで桜子に酷いことしてきたんだから」
「円ちゃん……い、いいよ、別に。私がとろいのがいけないんだし……」
「桜子がとろい事はみんな知ってるの! 問題は、とろいからっていう理由で桜子をいじめたりした、柿崎なんだから」
円は誰にでも平等で、だから、いじめられっこ相手に特別優しくする、といったこともなかった。
堂々と“とろい”だなんて言ってのけるのは、当時の私には、常識から外れていて、困惑してしまった。
それでも、そんな私を裏切ったりなんてしなかった。私がやられる側に回っても。
「おはよ」
その日は桜子は風邪で休んでいて、いつも遅れて学校にくる円が挨拶をしてくれたのは、心底ホッとした。
円を見ていて分かったのは、いじめが格好悪いんじゃなくて、いじめないのが格好いいという事だった。
円は、私の机の上にばら撒かれていた虫の死骸を見て、黙って一緒に片づけてくれた。
二人いるって、なんて心強いんだろう。桜子は今までずっと一人で耐えてきた。あのとろい桜子が、こんな惨めさと寂しさを。
「ねぇ、桜子……」
「なぁに、美砂ちゃん」
「私のこと、怒ってないの……?」
「う〜ん? 分かんない」
夕焼けの下、河川敷を歩く二人の間に、沈黙が流れる。怒っていない筈がない。それぐらい、私にだって分かる。話すどころか、
友達の殆どいなくなった私と一緒に帰ってくれているというのに、それでも私は、その嘘が気に障った。
「嘘吐かないでよ。桜子には、私みたいに人の顔伺って答えて欲しくない。怒ってるでしょ? ムカついてるでしょ? いいよ、怒
っても。その方が私もすっきりするし」
なんという自分勝手な言いぐさだ。自分でもそう思う。でも、あのとろい桜子にだけは、嘘吐きになって欲しくなかった。円の様に、
ずかずかと本音で、私の事を怒ってほしかった。
桜子はこちらに向き直って、ニッコリと笑う。
「私ね。格好いい円ちゃんを見習って、ずっと笑ってる事にしたんだよ。円ちゃんは格好いい役と、ガミガミ怒る役で、それで、
私が、ずっと笑ってる役。で、美砂ちゃんは、普通の人の役!」
私は、きょとんとして、それから、思いっきり笑った。笑い泣きに見せたくて、溜めていた涙を零した。
そうか。これが、この心苦しさが、罪を償うってことなんだ。
桜子が私の事を怒ってくれたら、きっとこんなにも苦しくなかっただろうに。
「どうでもいいけど……ひひひ……普通の人の役は……やめてよ……」
夢の中なのに、自分の姿が映っている。さっきまで見ていた光景。喚き、叫ぶのどか。私を背負う亜子。
そして、保健室の天井。目を開けると、全く同じ天井が視界一杯に広がった。
「あれ……また、保健室?」
左手を突いてベッドから起きあがろうとすると、指に刺す様な痛みが走った。呻き声を聞きつけて駆け寄って来たしずなが、私の
額に浮かぶ汗を見ると、優しい手つきでそれを拭き取ってくれた。香水の匂いか、それとも室内の芳香剤の匂いなのか、微かに
漂ってくるフローラルの香りが頭を落ち着かせてくれる。
「痛み止めは打ってあるけど、まだ辛いでしょうから、早く帰って寝た方がいいわ」
「そうだ……先生、今、どうなってるの? 亜子は!?」
「あなたまで無理しなくてもいいのよ。……もし、今学校が辛いんだったら、私の家に来なさい。寮に戻っても、おんなじだろうし」
しずなが悲しい目で見つめてくる。優しさは嬉しい。けれど、まだやらなければならない事がある。
「先生、亜子は? まだ逃げてるんじゃないの? 私、亜子を助けなきゃ」
「3Aの生徒には、私から言っておくから。あなたはもう、休んでなさい」
しずな自信にもその行為がいかに無駄であるかは、よく理解していた。今まで何度、その無駄な行為を繰り返し、絶望したことか。
廊下に響き渡る足音。明日菜の“待ちなさい”という大声が、二人の耳に入る。止まる足音。
「先生……大人にも、解決できない事って、あるでしょ」
悲しさを一層募らせた目で見返してくるしずなに、柿崎が力強い視線で答えた。
「私には解るの。この戦いはきっと、大人が手を出しちゃいけない問題なんだって」
上履きに足を突っかけた柿崎は、勢い良く保健室のドアを開け放った。しずなは静かにその背中を見送る。
「もう……本当に暴れるのが好きなんだから……あのクラスは……」
それはほんの少し前まで、元気のいい我が子を見つめる親の気持ちで言っていた言葉だった。
今はただ、柿崎の怒号を聴きながら、無事を祈る事しかできなかった。
「早く! こっち!」
保健室前の階段下の物置、柿崎がそのドアを開け、3人で入ると内側から閂を掛けた。外からは複数人がドアを叩き割らんと
するばかりの、耳障りな金属音が響いてきた。通気口をくぐり抜けて秘密の通路へ出る。亜子が歩き辛そうにしていたので、柿
崎がのどかを立たせて、肩を組んで歩き出した。
「ところで、なんで本屋ちゃんが一緒に逃げてるの?」
「あぁ、えっと……それは……」
のどかは未だ怯えているのか、独り言をブツブツと呟いていた。
「外に出て、落ち着いてから話すわ。今はのどかもこんな状態やし」
秘密の通路に終わりが見えてきた。外の明かりがうっすらと視界の先に差し込んでいる。
もう少し、あと少し……
昼間の強い日差しが降り注ぐ。眩しさに柿崎が目を細めた先に、人影があった。
「残念だったな。私はこれでも双子と仲が良かったんだ。持つべきものは友達だな。そう思うだろ?」
「龍宮さん……」
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