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『朝倉/Crisis (Heretics & Killers) 』
早朝五時に起きた私は、準備に取りかかるために麻帆良学園へと赴いた。
誰にも見つからないよう、体育館の倉庫に籠もり、鞄の中から封筒を取り出す。封を開けると、身代わりの札と思しき紙の束を
発見し、そのうち十数枚に自分の名前を書くと、やはり自分と全く同じ姿形の身代わりが現れた。
「すごい……鏡みたい……」
「命令をどうぞ」
淡々とした口調で、無表情な身代わりはそう尋ねてきた。
「その前に、いくつか聞いておきたい事があるんだけど……」
「はい、なんなりと」
朝倉はポケットからメモ帳を取り出し、修学旅行で刹那が使っていた身代わりから得られた情報のページを、改めて読み返した。
「自分以外の名前を書いても、大丈夫なんだよね?」
「ええ、イメージがしっかりしてれば。あ、あと、字はできるだけ丁寧にお願いしますね。へンなのが出てきてしまいますから」
あらかじめ考えていた質問の項目、他人の名前は、のところに丸をつけ、その隣に「字は丁寧に」という一文も書き加えておく。
ここまでは問題なし。
「じゃあさ、こういうのはどう?」
それからしばらく質問を続け、作戦に支障がない事が判ると、今度は徹底的に命令を叩き込んだ。学校の地図を見せ、誰がど
こに配置されるか、どこでどういったアクションを起こすか、新しく出現する身代わり達に、どういう命令を伝えさせるか、事細か
に説明する。ノート数ページ分に及ぶ作戦内容に、心なしか身代わり達は顔を緩め、楽しそうにしていた。
「おにごっこですね、いわゆる」
「そうだね。それから、物真似は徹底的にね。一番ばれちゃいけないとこだから」
「分かってますよ。名前を書いた時点で、その人の大体の性格は再現できますから」
心は高ぶり、不安は影を潜め、声を上げずにはいられなかった。
「よしっ、よぉし! 回収班、スイッチ班、陽動班、各自配置場所へ急行! みんな、絶っ対、成功させるよ!!」
狭い倉庫の中で威勢のいい声が反響して、各々が自分の付くべき配置へ向かった。
*
龍宮は誰かが自分に向かって質問する声を聞いたのだが、授業中ずっと寝ていてぼやけた頭は、相手の言葉を正確に捉える
ことができなかった。
「なんだって?」
「だから、昨日の授業中、しずな先生に何か渡してただろう」
「ああ、それが、どうかしたか?」
刹那はあからさまに苛立ちを露わにしていた。特に知りたいわけではなく、ただ何となく聞いてみただけなのだが、わざわざもう
一度聞き返さなければいけないとなると、余程知りたい事情があるように見えてしまう。かといってここで引き下がるのも、収ま
りが悪い。
「別に。ただちょっと聞いてみようと思っただけだ。仕事の関係かと思ってな」
「ああ、昨日のあれか」
「だからさっきからそう言ってるだろう」
「何を苛ついてるんだ。うちのお得意先が祭事で大変だから、身代わり札を寄越してくれってだけの話だよ。人手が足りないか
らってな」
「それをどうしてしずな先生が受け取りに来たんだ」
「待ち合わせの時間に相手が来なかったんだよ。授業をさぼるのも何だと思って、しょうがないから授業に出ていたんだ。遅れ
て来た相手がしずな先生に頼んだんだろ。待ち合わせの時間に行く人もいないとなると、人手不足も深刻だな」
龍宮はそう言って笑ったが、期待していたよりは本当に大した話ではなく、刹那はそれなりに落胆した。
「授業をさぼるのも、って結局あの授業でも寝てたじゃないか」
「やる前の心構えと結果は、必ずしも一致するわけじゃない」
教室の雰囲気が豹変したのは、龍宮がそんな事を言った直後だった。
*
私が悪いんだ。きっと、私がずっと着いてくる事が煩わしかったんだろう。ずっと私が一人でいれば、朝倉は大切な友達を失う
ことはなかった。もう朝倉に頼るのはやめよう。
泥水に濡れた椅子に腰掛けながら机に伏せ、夕映は自分の行動を呪った。隣の千雨がなにやらそわそわと落ち着きのない
様子を見せていたが、どうせ自分には人の気持ちなんて理解できない。考えたって無駄だ、と半ば自暴自棄になりながら、四
時間目の授業を聞き流していた。
いつにも増して無表情だと思っていた朝倉がこちらの席にやってきたのは、昼休みに入ってからだった。木乃香達が私で遊ぶ
前だったから、私はまた何か期待してしまい、期待しちゃ駄目だ、とすぐに頭の中をうち消した。
「ほら、立って。拭いてあげるから」
私は一瞬何のことだか理解できず、もう一度聞き返してみたが、やはり同じ言葉が返ってくるだけだった。
「椅子、拭いてあげるから立って。汚れてるでしょ?」
朝倉は手に雑巾を持っていて、さては拭いた後それを私の顔に押しつけるつもりだな。とうとう向こう側についたのか。これで
また私を一人にするつもりか。と疑ってしまったが、特にそういった事は起こらなかった。
「あれぇ、かずみん、なにしてるのん?」
確実に何かが動く。私はとっさにそう感じて、身を引き締めた。果たしてそれは良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
ただ、その直後の朝倉の行動を見て自分の目を疑い、これはもうちょっとやそっとでは済まないな、と悟った。
「夕映の事はもう、どうでもいいんじゃないんですか?」
のどかが本を覗きながらそんな事を口にしが、もうその言葉には何も感じない。
「うん、どうでもいいよ」
朝倉の放つただならぬ気配に刹那が立ち上がり、クラスに緊張の糸が張り詰めた。また何かが始まる。また知らない振りをし
なければならない。そんな空気が充満する。
朝倉は夕映を立たせ、泥に塗れたその椅子を雑巾で拭き取った。
「どうでもいいってことはさ、つまり、もう夕映っちを気にする必要はなくなったってわけ」
突然、朝倉はボールを投げるモーションに入った。その有り得ない光景は一瞬の出来事で、誰もが理解するのに相応の時間
を必要とした。誰もそれをやっはいけない。誰も近付いてはいけない。それなのに、朝倉はついにそのタブーに触れてしまった。
木乃香は頭に乗った雑巾を手で振り払い、朝倉を見つめる。
おぞましいその瞳は、見つめられた者全てを凍り付かせる。そんな力が本当に宿っているような、暗くて深い、悪魔のような瞳
だった。のどかでさえ体の震えを隠しきれていないのに、私ならきっと失神してしまう。それなのに、朝倉は何故か平然として
いた。
「さあ、好きなだけ夕映っちをいじめ抜いちゃってよ。私はヒマ潰しに、もう一回ぐらいぶつけに来るからさ」
最初に口を開いたのは刹那だった。
「貴様、今……何をした」
「普段、木乃香がやってること。……のほんの一部を、そのまんま返してあげたの」
龍宮が頭を抱え、あーあ、と一人呟いた。これはもうどうしようもない。手加減のしようもない。
「知っとるよ。かずみん、ずっと何か考えとったもんなぁ。今日がその実行日なんやね」
朝倉は軽く微笑んだかと思うや、猛スピードで教室を出て行った。決して逃がすまいとして、刹那がそれを追いかける。
「みんな、何してるん?」
クラス中の会話が、一時停止を押したような静寂に包まれた。皆が皆恐怖に支配され、昼食の手を止めると、誰からともなく
教室を出て行く。拒否は許されず、こんな時の常識ほど、役に立たないものはない。
*
本気で走っている筈なのに、一向に朝倉に追いつく気配がない。
おかしい。足が速すぎる。確かに朝倉は、文化部にしては足は速い方だが、私が見失ってしまいそうな程だっただろうか。羽
を出せばもっと速度は出るが、学園内でそれをやるわけにもいかない。
昼のチャイムが鳴った学園は、購買へ向かうために生徒が走り回っていて、一歩踏み出すごとに次の生徒が進路の邪魔に
入ると、あやうく罵声を飛ばしてしまいそうになる。朝倉はそんな人の波をかいくぐりながらも、私に追いつかれない程の速度
を出しているのである。
しかし、どんなに足が速かろうが、お嬢様を汚した者を放っておく事はできない。お嬢様は綺麗でいなければいけないのだ。
後で私が拭いて、綺麗にしてあげるんだ。
刹那は怒りに震えながら走るスピードを上げ、気が付くと一階のホールまで出ていて、前方にいる朝倉を射程圏内に捉えて
いた。
夕凪を使うまでもない。何より、この拳をぶつけてやらないと私の気が収まらない。左手を伸ばし、朝倉の制服の襟をひっ掴
んでこちらを振り向かせ、拳を振り上げる。
振り下ろした右手に鈍い感触があった。しかし同時に、奇妙な音を聞いた。モーターの回転音のような機械じみた音が、左手
奥の生徒用のロッカーから聞こえてきたのである。刹那は音のした方を見たが、誰もいない。
目の前の朝倉が笑ったかと思うと、どこからか 「今日は購買のパンがセールだよー」 といった声が聞こえてきて、同時に大
量の生徒が廊下を駆け抜け、刹那は再びもみくちゃにされる。どういうわけかその声は、朝倉のものとよく似ていた。
「しまった……」
気付いた時には、朝倉は生徒の波に飲まれてどこかへ消えていた。
*
教室を出た龍宮は、刹那とは反対方向に回り、別ルートから購買の方を目指した。
この時間は購買の生徒が一階をうろついている。人に紛れるなら絶好の場所だが、賢い奴なら裏を突いてどこかに隠れるかも
しれない。もっとも、一般人が刹那の足に勝てるとは思えないが。
しかし、さっきの朝倉には妙な自信があった。あれはやはり、今まで暖めていた何かを実行する事への自信なのだろうか。
だとしたら、何か罠を張っているかもしれない。
購買へと向かう生徒達の波を逆流し、何人かとぶつかりながらも階段の方へと辿り着くことができた。そのまま階下へ降りよう
としたのだが、目の端に留まった赤い髪に足を止める。
いつの間にあんな所へ……。
朝倉は階段を昇って、上の階へと行こうとしていた。予想していたよりも随分と行動が早い事に一瞬戸惑ったが、このまま上の
階へと進めば、いずれ屋上へ辿り着く。言うまでもなく、そこは行き止まりだ。
「馬鹿め……」
慌てる必要はない。ゆっくりと階段を昇り、内心でほくそ笑みながら龍宮は屋上への扉を開けると、屋上の真ん中で見知らぬ生
徒と話し込んでいる朝倉の後ろ姿へと向かって足を進め、背後から声を掛けた。
「残念だったな、朝倉」
「へ……?」
龍宮は、朝倉の恐れおののく歪んだ顔を期待したのだが、振り向いたのは朝倉と似たような髪型をした、全くの別人だった。
「あ、いや……すまない。人違いだ」
龍宮は気恥ずかしさから、急いで屋上を後にした。背後から微かに嘲笑が聞こえてきて、尚更腹の中がむず痒くなる。
何故私が恥をかかなければならないんだ。くそっ、あいつがいけないんだ。あいつが全ての元凶だ。絶対に捕まえて、きついお
仕置きを加えてやろう。そう思わないとやってられない。
人違いの相手を改めて振り返って確かめる、などということは、羞恥心に刺された龍宮にはできる筈もなく、だから後ろの二人
があっという間に消え去ったのを確認する余裕など、龍宮にはなかった。
朝倉はどこへ行ったんだ。やはり一階か? そうだ、この短時間で刹那を撒いてこんな所まで来られるわけがないじゃないか。
何をやってるんだ私は。冷静になれ、落ち着け私。
屋上からの下り階段を降り、一階の方へと向かう。もうとっくに刹那が捕まえているかもしれない。とりあえず刹那に確認をとっ
てみよう。そう思った矢先だった。三階の廊下が妙に騒がしくて、何気なくそちらの方を見た。野次馬達が集まって何かを取り
囲み、口々に疑問や質問をせき立てている、といった雰囲気だ。
落ち着け、落ち着け、私。私は冷静だ。こんな状況で幻覚を見る筈はない。じゃああれは、集団が取り囲んでいるあれは、一
体何なんだ。
昼食そっちのけで騒ぎ立てている女生徒達を掻き分け、中にいる者を確かめる。幻覚ではない。
「どうしてこんな所に……ビートたけしが……」
間違いない。テレビはあまり見ない方だが、これ程の有名人を知らないわけではない。本物と寸分違わぬその人物は、こちら
を向いて無表情に、独特の動きとイントネーションで言った。
「ばかやろうこのやろう」
*
「刹那さん、何やってるんですか!?」
「宮崎さん? 何って、朝倉さんを追っているんですよ……」
朝倉を見失って戸惑っている刹那の背中に怒鳴り声が飛んできたのは、生徒の波が収まり、ホール付近の視界が開けてから
だった。たった今見失っただけに、あまり威勢のいい事は言えなかったが、刹那はとりあえず事実を伝える。
「もうとっくに第二校舎の方に行ってますよ! 早く追ってください!」
「第二校舎に!?」
窓の外に目をやると、確かに遠方の校舎に朝倉らしき後ろ姿が見えた。さっきのいざこざに紛れて外に出たにしても、行動が
速すぎる。刹那は慌ててホールから外に出ると、第二校舎へ向けて全力で走り出した。
校舎内は購買で昼食を買い終えた生徒がちらほらと歩いており、今だ走りやすい状況とは言い難かった。刹那は周囲をきょろ
きょろと見回しながら走っていたため、頻繁に他の女生徒とぶつかっては頭を下げ、迷惑そうな眼差しを買っていた。
しかし、これだけ探し回っているのに、何故か朝倉は一向に見つからない。
刹那ははたと足を止め、疑問の糸口を探した。
朝倉の足が速いのは、多少度を超しているが分からないでもない。しかし、宮崎のどかは、あの女生徒達の波を越えて私の所
までやってきたのだろうか。あの短時間で、私と朝倉が全力で走ったあの距離を?
私の足が遅くなったのか。いや、そうじゃない。ならばこう考えた方がまだ納得がいく。私の周りの人間の足が、何故か速くなっ
ているのだ。
おかしい。何かがおかしい。闘いの勘がそう告げている。私は今、闘わされているのだ。何者かの見えない意志によって。
ここには朝倉はいない。刹那はそう感じて、第一校舎の方へと引き返した。
「刹那」
第一校舎で最初に出会ったのは龍宮だった。
「どこに行ってたんだ。朝倉は見つかったのか?」
「いや、第二校舎でそれらしき人を見かけたんだが、見間違いだったみたいだ」
龍宮はそれから刹那にも分かるようにはっきりと舌打ちをしたかと思うと、思い切りこちらを見下したような口調になった。
「おいおい、まさか一般人相手に遅れをとったんじゃないだろうな。お嬢様に入れ込み過ぎて腑抜けたのか?」
「龍宮……?」
一瞬驚かされたが、すぐに分かった。こいつは龍宮ではない。恐らく、さっきの宮崎のどかとの会話でも、私は当人を目の前に
していたのだ。
「いや、朝倉和美」
相手は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに例の自信たっぷりな表情に戻り、刹那の声に答えた。
「よく分かったね」
「変装するなら手足の肌の色にも気をつけた方がいい」
朝倉は覆面を取り、直ぐさま方向転換して再び逃走を図った。二度も同じ相手を逃がす事は、神鳴流にとって恥ずべき事だ。
今度はそう距離は離れていない。追いつけないわけがない。その筈だった。
女子トイレのある曲がり角だった。スピードを緩めまいとして全速力で曲がったために、角から出てくる女生徒に気付かなかっ
たのだ。体に衝撃が走ったかと思うと、相手は倒れ様に小さく悲鳴を上げ、尻餅をついていた。
「すっ、すいません! 大丈夫ですか!?」
「痛ぁ〜い! ちょっとぉ、気を付けてよね! 廊下は走っちゃいけないんだよ?」
そんな校則があったとは、と思わず驚いてしまう程、その古びた定型句を聞いて新鮮な気持ちになった。が、今はそんな事を考
えている場合ではない。あまり謝罪に時間を割いていると、また逃げられてしまう。
「すいません! 3Aの桜咲刹那です。後ほど謝罪しますので、今は見逃してください!」
「あ、ちょっとぉ!」
後ろから投げかけられる罵声を背中に浴びながら、朝倉の逃げた方を追い掛ける。不思議な事に、数メートル前方にいる朝倉
は、さっきよりも足が遅くなっているように感じた。皆から追い掛けられて疲弊しているのだろうか、とも思ったが、それにしては
龍宮の変装時には息切れ一つ起こしていなかった。
朝倉はまた人混みの中に紛れようという魂胆なのか、妙にざわついた廊下を、こちらを誘い込むようにして走っている。
刹那はまた人とぶつからないよう注意を払い、朝倉の背中を見失わないよう、集中力を研ぎ澄ませる。
廊下の端まで来た辺りで、急激に人混みの数が増した。固まった女生徒達がなにやら騒いでいて、とても突き抜けられるような
密度ではない。
ところが、朝倉はそんな人混みをもろともせず、遠慮なく隙間から入って行き、逃げ延びようとしていた。
迷っている暇はない。追い掛けなければ。そう思ったのは一瞬の出来事で、刹那が人混みに突入しようとした瞬間、状況はすぐ
に一変した。
集団の中から一人、異彩を放つ人間が出てきたのである。
「どけよこのやろう」
*
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