湿度が高かったため、気温以上に室内での体感温度は高く、だぼだぼのシャツを着た美空の額は少しばかり汗ばんでいた。
窓の外には時期を早まった蝉がジワジワと鳴いていて、いつだったか、外国人は蝉や鈴虫の鳴き声は騒音にしか聞こえない、
という話をされたのを思い出した。あれは何の授業中だっただろうか。
そんな記憶に思考を中断されながらも、ソファーの上に腰を下ろした美空は、朝倉がシャワーを浴びている間、何から話せ
ばよいのか、頭を悩ませていた。
噂では、朝倉は魔法の事について知っている。記憶がないということは、何らかの形でそれが魔法関係者に知れ渡り、記憶を
消された可能性がある。それならば、もう一度魔法の事について話してしまえば解決するのだが、美空は自分が魔法関係者
だという事実を朝倉に知られてしまうのが嫌だった。それに、もう一度魔法の事について話してしまえば、朝倉の記憶を消し
た何者かの意志に反してしまう。というよりそもそも魔法をばらす事は規定違反であり、再び自分がばらした事が誰かに知ら
れてしまえば、自分も規定違反を犯すことにになってしまう。
しかし、朝倉はどうも、変わってしまった3Aについて何も知らないふしがある。ということは、何も知らない朝倉が下手に動け
ば、彼女達の恰好の餌食になってしまうことは、日の目を見るより明らかだった。

その方が、今の自分にとっては有り難い。
3Aの超人達から逃げるよりも、誰かが何かをされている時、目を逸らすために逃げる方が遙かに楽なのだ。
そうだ。記憶がないのなら、その身を以て体験した方が理解が早い。そこまで考えが纏まった時、朝倉がシャワールームから
出てくる音が聞こえた。



美空がソファーの上でしきりに両足を掻きむしっていた。どこか落ち着かない様子を見せている。
そんな美空の様子を見た朝倉が、美空を落ち着かせようと、冷蔵庫からウーロン茶を出して、2人分のコップをテーブルの上に
置いた。美空がそれを取って一口含む。
朝倉がシャワールームの中でずっと考えていたのは、ネギの体に異変が起きたのか、それとも朝倉自身が何か魔法による
“毒”的なものにやられてしまったのか、ということだった。しかし、確かにさっきのネギは異常な雰囲気を醸し出してはいたが、
学校内から既に何か普通ではない気配を感じ取っていた朝倉は、後者の線が強いと踏んでいた。だとしたら、美空はどうか。
もし、誰かが意図的に朝倉を陥れようとして、幻覚めいた何か、あるいは、エヴァンジェリン宅にあった“転送装置”の様なもの
でどこか別の場所に来てしまったのであれば、一番身近にいる美空こそが危険な存在になりうる。場合によっては、先制攻撃
もやむなしかもしれない。何にせよ、まずは出来る限り情報を集めなければ。
朝倉は、話の口火を切った。
「で、まず、何から聞こうか」
「え? あ、そ、そうだね。何から話そうか……」  さっきから動揺を隠し切れていない。イタズラ好きなのに嘘を吐くのが下手
なのは致命的だろう。
「うん、それじゃあ、まず『気を付けろ』ってのから。あれは、何に対しての言葉だったの?」
突然向けられた朝倉の真剣な眼差しに、美空の気持ちがほんの少しだけ揺れ動いた。いつもの朝倉にはない、微かな優しさ
が瞳から滲み出ていたからだ。その瞳から滲み出る活気は、ほんの少し前まで友達であった筈の朝倉の姿を美空に思い起こ
させた。
しかし、ここで引き返すわけにはいかない。一人友達を売り渡すだけで、これからの学園生活が大分楽になるのだ。このチャン
スは逃してはならない。
「あれは……。いや、あれは、その……なんとなく、勢いで言ったというか……」  語尾は遠慮がちに萎んでいった。その返答に、
朝倉が少し残念そうな顔で、
「なんとなくってことないでしょ。ハッキリと『誰かに会ったら』って言ったんだから」
美空は額にぐっしょりと汗をかいていた。今までにない程頭を高速回転させ、朝倉を欺く方法を考える。
「実は……実は、最近寮内で不信な人物を見かけるっていう噂があるの……」
「不信な人物?」
「うん……。噂では、寮内に潜む悪霊って言われてるんだけど、そいつはよく大浴場に出没して、誰かに取り憑くって話らしいの。
 あ、でも、前に3Aに出た相坂さよって子じゃなくて、もっとおぞましい気配を持ってるの。取り憑かれたら最後、人格が恐ろしく
 変わっちゃうって話らしいよ」
朝倉が頬の辺りをぽりぽりと掻きながら、少し困った様な顔で中空を眺めた。上手く騙せただろうか。何か変な事を言って不信
がられていないだろうか。騙すのは今日だけでいい。この瞬間だけでいい。そんな願いが美空の頭の中を逡巡する。

神さま……

「そうか……さっきネギ先生と会って変な感じがしたのもそのせいか」
美空は心の中で大きくガッツポーズをした。


美空が嘘をつく時は、もう少し表情を隠すのが上手かった、と朝倉は思う。
しかし、今のはあからさまに違っていた。いつものイタズラっぽい嘘ではない。人を騙す時の瞳の色をしていた。朝倉は顔には
出さないよう努めたが、大きな落胆を感じていた。誰にでも隠し事はある。魔法に関する事だったら尚更そうだろう。
でも美空なら、冗談を交えてでも本当の事を伝えてくれる筈だった。ネギ先生が悪霊に取り憑かれた? この寮内に潜む悪霊に?
その悪霊は、一体いつから潜んでいた。どうして今まで誰も噂にしていないのだ。そんな噂、この私の耳に入らない筈がない。
仕方がない。これは美空の方から仕掛けてきたのだ。この朝倉和美に、嘘をつこうとした。騙そうとした。
最後のカードを出すしかない。今は何よりも情報が大切なんだから。
「美空、アンタさ……」
魔法使いでしょ。喉元まで出かかったその言葉を、朝倉は飲み込んだ。
「え? な、何……?」
「あぁ、えっと……」 朝倉は、中空に消えた言葉の続きを探した。美空の目が怯えきっている。私は今、何をしようとしたんだ。
脅してでも情報を引きずり出そうとした。本当の事を言わなければ、魔法使いである事をバラす、と。そういえば、ネギ先生にも
そんなような事をした記憶がある。あの頃はまだ何も知らなかったんだけど。
いけない。何も知らないだなんて、そんな言い訳で、また酷い事をしようとしてしまった。まだ何が起こっているかも解らないのに。
美空はただ、自分の身を守ろうとしているだけなのかもしれなといういのに。
そんなところから強引に引っ張り出した情報に、一体どれほどの信憑性があるというのだ。
「あ、いや、えぇっと……何でもない」 さっきの美空と同じ表情になってるかもしれない。
そうか。こういう嘘もあるのか。
「ごめんごめん、何でもないよ。気にしない、気にしない」
少し照れた笑いを浮かべた朝倉が、美空の頭を撫で回した。そんな朝倉の不可解な行動に、美空は怯えるとも安心するとも
つかない複雑な顔になった。実際、突然緊張状態が緩和されたはいいが、あまりに突然過ぎるその訪れに、朝倉がまた何か
企んでいるのではないかと警戒を解けずにいた。

(でも、なんだろう。今日の朝倉、何か安心する……)
「汗、べちょべちょじゃない。も一回シャワー浴びてきたら?」
「え? でも……」
シャワーを浴びている間、朝倉に持ち物を漁られる場面を想像した。ひょっとしたら、何か弱みにつけこまれるかもしれない。
「いや、いいよ。汗は、タオルで拭いとくから」  朝倉がまた何か考え事をしている。まだ何かを疑っているんだろうか。
「じゃあさ、一緒に浴びよっか」
「……へ?」
「いいからいいから、ホラッ!」
無理矢理美空の上着を剥いだ朝倉も、それに合わせて少しずつ服を脱いでいく。美空が誰かと一緒に裸になるのは大風呂
以来で、久々に第三者に裸体を見られ、何だか気恥ずかしさが込み上げてきていた。
「朝倉、今入ったばっかりじゃん。別に、無理に付き合わなくても……」
「いいのいいの。ハダカの付き合いってやつよ」
隠すべきなのか、それともハダカの付き合いに乗ってやるべきなのかで、美空の手は行き場所を失ってあわあわと揺れ動い
ていた。その間に朝倉は美空の背中を押してシャワールームへと連行して行く。

狭い浴槽に一緒に入ってるものだから、二人して体を縮めて体育座りの体勢になった。かといって、朝倉から「狭いんだけど」
なんて悪態が飛んでくるわけでもない。飛んできても困るのだが。
「どうしたの? 突然……」 こんな狭い浴槽で。
一緒にシャワーを浴びよう、と言い出した事もそうだが、言外に、突然親しみを露わにした事に対する探りを入れてもいた。
伝わったかどうかは知らないが。
「嫌だった?」
「嫌じゃ、ないスけど……」
口元まで湯船に沈めて、ブクブクと空気を浮かび上げた。汚いとは思わなかった。
「尋問されたと思ったら、いつの間にか湯船に入ってた。しかも二人で」
「しかも窮屈な」
わかってるじゃない。でもそれは浴槽のせいではない。多分。
「最近、学校はどう?」
まるで最近学校に行ってない人に聞かれたようだった。聞かれてから初めて、同級生だったことを思い出した。
「あ、この質問はダメなんだっけ」
美空は答えない。拒否しているわけではなかったが、受け入れたわけでもない。ただ、迷っていた。せっかくチャンスを掴んだ
のに、逃したくはない。でも朝倉は、単なる記憶処理を受けたわけではないようだ。
「うまくやってるよ」 実際、上手く逃げ回っている。嘘ではない。って、わたしはいじめられっこか。いや、そうだったっけ。
朝倉が微笑む。
「なんかいじめられっこみたいな返事だね」
そうなんスよー、と言ってしまいたくなる。何でもお見通しか。もう一度探りを入れてみる。
「アタシがなんでいじめられるのよ」
「それもそうか」
そうきたか。さらに朝倉の質問は続く。
「アタシは何者なの?」
「出席番号3番、朝倉和美。パパラッチ、報道部部員、趣味はスクープ、バストは……」
「いやいや、そうじゃなくて」
「ヒップから数えた方がいい?」 いやいや、そうじゃなくて。質問の意味は何だ。
「今日の夕方さ、っつっても殆ど夜だったけど、私は部室で目覚めたわけよ」  朝倉は唐突に話し始める。途中から話に参加
したかのような錯覚に陥ってしまう。
「ねぼすけさんだ」
「そのねぼすけさんは、来月の麻帆良新聞に載せる記事の内容について、頭を悩ませていました」
朝倉は目を閉じて、何かを回想しているようだった。
「それで目を開けた時、報道部部員が入ってきて、いつまで経っても纏まらない私のレイアウトに業を煮やしたのか、ひどく不機
 嫌だった」
「そりゃあ、不機嫌にもなるね」
「うん。そりゃあ、不機嫌にもなるさ。でも、必要以上に不機嫌だったら、おかしいと思うでしょ?」
「まぁ……」 必要以上に機嫌のいい人も、同じぐらいおかしい、とも思う。
「その2」 あぁ、その1だったんだ、今の。
「某私の友達が、いなかった。見えなかった、って言った方がいいかもしれない」
これは、私の事を言っているのだろうか。嫌味と受け取るべきだろうか。しかし、今の朝倉からは考えにくい。
昨日までなら、いや、今日の夕方までならまだしも。
そこで美空は、ふと気が付いた。つまり朝倉は、今日の夕方から学校がおかしい事に気が付いたのだ。恐らく記憶処理が行わ
れたのだとすれば、部活時間帯からその辺りだろう。本当に行われていたらの話だが。
こんな風に考えていると何か、考えるよう促されている気がしてきた。朝倉ぐらい頭が良ければ、それぐらいのことは出来るのか
もしれない。さっきついた自分の嘘がバカみたいに思えてきた。

湯船に浸かってリラックスしている所為か、落ち着いて頭を働かせることができた。無理に回転させるよりも効率的に思えたし、
健康的であるような気さえした。
「見えなかったって、誰の事?」 念のため、聞いてみた。今更、あなたのことですよ、と言われたところで大して驚きはしないが。
「さよちゃん」
「へ? さよって、あの相坂さよ?」
「そう。まぁ、幽霊だし、向こうの都合もあるのかもしれないけどさ」
「取り憑かれてたの?」
「憑かれてた、のかなぁ……。面白いから、さよちゃんなら大歓迎なんだけど」 朝倉に歓迎されない幽霊が可哀想だ。
「向こうの都合って、なによ」 予定があったとか。
「例えば……免許の更新とか。幽霊でいるための免許。期限が切れたのかもしれない」
「ゴールドだった?」 とりあえず、話を合わせる。
「さぁね。でも、さよちゃんならきっとゴールドだよ。さよちゃん、ちゃんと幽霊やってたもん」
「で、それは何時頃の話なの?」
「ゴールドの話?」 言われて、一体何がゴールドだったのか、と思ってしまう。
「その、さよちゃんがいなくなったのは」 幽霊なんだから、たまにいなくなるぐらい、いいだろうに。
「授業中はいた。隣の席だったし」
朝倉の隣の空席を思い出す。授業中もいろいろと気が抜けなかったから、いまいち朝倉の様子は憶えていない。
不思議なことに、さっき話した寮内に潜む悪霊の話は一言も出てこなかった。やはり嘘は見抜かれていたのか。よくよく考えて
みれば、当然の話だった。その場で取り繕った嘘に朝倉が騙される筈がない。かといって、せっかく昇ってきた道を引き返した
くはない。朝倉は頭がいいから、きっと上手くやれる、そんな都合のいい解釈で自分を納得させてみた。
「で、その3は?」
「その3は某私のルームメイトが妙によそよそしいことなんだけど、それはまぁいいや」
ネギ先生の話がとばされていたのは、悪霊の話で私の嘘を暴いてしまわないための、朝倉なりの気遣いのつもりだろうか。
もしそうだとしたら、ちょっとだけうれしい。
「そこで、シスター・美空・イタズラスキーに質問があるんだけど」
「なにその適当につけたクリスチャンネーム」 あらゆる間違いを集約している。
「シスター・美空・プレミアム」
「もういいや、それで」 なんか豪華そうだし。
「例えば私が、何か途轍もない怪物に七色の光線なんかを浴びて、別の次元に移動しちゃったとするじゃない」
美空がうんうん、と相槌をうつ。同時に感心もしていた。相手の弱い部分に必要以上に踏み込まず、それでいて必要最大限の
情報を得ようとしている。ときに冗談を交えながら。どうやらただのパパラッチではなかったようだ。
「そんな時、一番気を付けなきゃいけないのは、何だと思う?」
曖昧な質問でありながら、明確に聞きたい事の核心をついている、そんな印象を受けた。美空は正直に答えることにした。
「そうだね……。一番身近な人、じゃないかな」
もしかしたら、その一番身近な人に裏切られるかもしれないから。

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