後ろでまとめていた髪を木乃香に引っ張られ、お互いの顔が真横に来た。やめてくださいです、と言ったが、
もちろん聞いてはもらえない。
「なぁなぁ夕映。どこ行ってたん? 朝からずっと探してたんよ?」
「お、屋上に、いたです」
「屋上? なんでそんなとこにいたん?」
「図書委員の仕事が終わって……それで……」
「今日は朝、教室におってなって、ゆうたやんな」
「ご、ごめんなさいです……」
明日菜が顔を近付けて、下から睨みつけられる。髪を後ろに引っ張られていたため、はっきりとは見えなかった。
「夕映、アンタお腹弱かったわよね」
全身に冷や汗が滲み出る。もうあれは嫌だ。どうして私ばっかりが。
「どうしてまた、私なんですか」
その理由に希望の残りカスを賭けた。もしかしたら、木乃香が私を気に入らない理由を改善すれば、もう私が
狙われることもなくなるかもしれない。
「理由? あらへんよ」  希望はあっさりと潰える。いや、最初から希望などない。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。顔面に押しつけられた弁当の米粒を洗い流しながら考えた。
考える事が人間最大の武器だ。そう父から教わったが、今のところあまり役に立ってはいない。
それでも、無駄だと分かっている思考を巡らせた。
最初にいじめが起こった時、のどかを救ってあげられなかったからだろうか。のどかは私を恨んでいるんだろう
か。でもそれは私が悪いわけじゃない。誰だって、自分だけは逃げていたいと思う。それはのどかも同じだ。
だから今、こうやってのどかにもいじめられているんだ。しかし、そう思ったところで今回私が選ばれてしまった
事はもう覆せない。誰かが身代わりにでもなってくれない限り。
一連の流れの中にできた、ほんの些細な綻びを思い出した。今朝早くの屋上、教室にいたくない一心で屋上に来た
私の前に、彼女は現れた。どうして朝倉は今朝、私に話し掛けてきたのだろう。普段は積極的にいじめに参加する
朝倉が、どうしてさっきは何もしなかったのだろう。
胃袋の中から何かが沸き上がってくる感覚があり、腹痛に襲われて口周りを押さえた。嘔吐はなかったが、
異物感からくる吐き気と頭痛は収まらなかった。
彼女は……朝倉は助けてくれるだろうか。どうしてそう思うのか自分に問いかけても、答えは出ない。
今朝の笑顔が優しかったから。あるいは、そう見えただけかもしれない。さっきは助けてくれなかったから、
もしかしたらただ悩んでいるだけなのかもしれない。

昼休みが終わり、午後の授業になっても、何も変わらなかった。相変わらず私はいじめられ続けているし、
朝倉もただこちらの様子をじっと伺っているだけだった。
やはり、首を突っ込むべきではなかった。これは魔法だ。そうに違いない。先生は誰一人助けてくれないし、
魔法を知っている生徒が事態の改善のために動く様子も全くない。もし私が魔法の事を知らなければ、もう済んだ
のだろうか。
ネギ先生は、あの頃の優しい先生は、こうなる事を恐れていたのかもしれない。先生が魔法に侵されてしまった
時、誰も助けてくれない、と。
また私は、ぼろぼろに虐げられながら、無意味な祈りを捧げるんだろう。
今日も、明日も、明後日も。
来ない助けを待つんだろう。



「あ・さ・く・ら・さん」
もう何度目か、美空がさっきから連呼している名前が自分のものだと気付いた時には、美空はテーブルに
座って頬杖をついていた。自分のことを『朝倉さん』などと呼ぶ友達は、さよぐらいしかいなかったため、
瞬間的に身構えてしまう。
「ご・は・ん」
間抜けな返事を返した朝倉に向かって、美空はスプーンを指の間でくるくると回していた。朝倉がのろのろと
した動きで木製の椅子に腰掛けると、さっきから鼻孔をつくチーズの匂いは、グラタンのものだと分かった。
インスタントではないことに、少し驚く。
朝倉は黙ってスプーンを手に取ると、グラタンを一すくい、口に運んだ。
かといって朝倉の口からは感想が出てくるでも、あまりのマズさにグラタンの破片が出てくることもなかった。
ただ呆然と、ビニールの敷かれたテーブルを眺めて、黙々とグラタンを食べている。
沈黙がしばし、二人の間を流れた。
テーブルの木目がそんなにネタになりそうだと思ったのか、クラスメートの手料理を口にして、「おいしい」とも
「マズい」とも「普通」とも言わない朝倉に痺れを切らし、美空が不機嫌になる。
「私の手料理に感想も何もないんだったら、今度から冷凍のグラタンにするよ」
朝倉が遅れ気味の反応で、
「あぁ、ごめん美味しいよ。うん、よく味わってみるとかなり美味しい。珍しいね、手作りなんて」
と、とってつけたような感想に、美空はまた不機嫌そうな顔をしたが、昨日までのぎくしゃくした感じはなかった。
「何かいいことあった?」
「別にぃ。教会でよく作ってるしね。そんなことよりさ」  美空が話題を変える。大した感想は必要なかったらしい。
「気にしなくていいと思うよ」
学校から帰って、机の上でずっと伏せていた自分を気遣ってくれたのか、美空は軽い口調でそんな事を言う。
嬉しくも、悲しくもある慰めだった。
巨悪を目の前にして何もできなかった自分と、それを肯定する友達。
「あれを、見せたかったの?」
朝倉の声のトーンが下がったことで、怒っていると思ったのか、美空はたじろいだ。いいじゃない、グラタン作った
んだし。そう言いそうな雰囲気さえあった。
「どうして、教えてくれなかったの」
「じ、実際に見た方が早いと思って……だって、信じられる? 3-Aがあんな風になるなんて」
「私が夕映っちみたいになればいいと思ったわけ?」  美空の言葉を途中で遮って、朝倉が語気を強めた。
責められた美空は、しばらく言い訳を考えていたが、昨日の朝倉の気遣いを思い出して、やめた。
「ごめん……」  伏し目がちに謝るが、謝って許してもらえる様なことではない。それぐらいは分かっていた。
気付けば、グラタンから立ち上る湯気が薄くなっている。気が付いたのが二人同時だったのか、お互いに目を
見合わせて、朝倉の『食べようか』の一言で、二人ともかちゃかちゃとスプーンの音を立てながら、グラタンを
平らげていった。
美空は矢継ぎ早に話し掛けてくる。今まで話せなかった分を取り戻すかの様な勢いだった。
そうか、今まで誰とも話せなかったのか。と、ようやくそこで、美空が今まで、今日の夕映と同じ立場だったことに
気が付いた。
責める必要はない。いや、責めてはいけない。夕映がいじめられるのを黙って見ていた自分が、誰かを責められる
立場にある筈がない。これは、魔法に首を突っ込んでしまった自分に課せられた問題だ。
今まで通り、とはいかなかったけれど、今だけは情けない自分を忘れて、美空のお喋りに付き合ってやることにした。

「ねぇ、美空……」  食器も洗い終わり、これから話す内容とは不釣り合いな、お笑い番組のやっていた
テレビの電源を消す。
ポットで注いだ暖かい紅茶を運び、スティックタイプの砂糖を注いでいる途中に、尋ねた。
「もう、この際だから聞くけど、アンタ魔法使いなんでしょ?」
吹き出しそうになった紅茶を無理矢理喉に押し込んで肺に入ったのか、美空が咽せてどんどんと胸を叩いた。
「あぁ、ごめん……ていうか、何もそこまで咽せなくても」
「いや、そういうことは出来れば、相手が紅茶を飲んでない時に聞いて欲しかった」
美空はまたしばらく、こめかみに指を当てて考える仕草をしていたが、やがて諦めたように溜息を吐くと、
「はいはい、そうですよ。魔法使いですよ。っていうか、どこで知ったの? それ」
「生徒がピンチになった時、謎のシスターが助けに来てくれるってのは有名な話だよ。まぁ、有名と言っても、
 根拠のない噂としてね。私だって、魔法の事を知る前は、こんな下らないネタ、新聞の小見出しに使うか
 使わないか、ぐらいだったからねぇ」
「あれ……?」  唐突に、美空が手元のティーカップを眺めて考え始めた。
「どうかした?」
「いや、そうすると、おかしな事になってくる」
「おかしいって、何が?」
「いや、私はてっきり、朝倉が魔法を知ったせいで、関係者に記憶を消されたものだと思ってたからさ。
 そのせいで、昨日の夕方以前の記憶が食い違ってたりしたのかと思ったけど、魔法の事を知ってるん
 だったら、関係者が記憶を消した意味ないなぁ、と思って」
朝倉が言葉を詰まらせる。確かに、記憶を書き換えられた、という可能性もないわけではなかったが、美空の
言う“魔法関係者”にそうされた場合、今だに自分が魔法の事を知っているのはおかしい。
「アンタは、今までに記憶が食い違ってた事とか、ない?」
美空はその質問をはっきりと否定する。自分の過去をひっくり返して思い出そうとしたわけではないが、今の
ところ、朝倉一人がその状況に陥っていると考えた方が自然だ。
「誰か、他の魔法先生に相談したりしないの? いるんでしょ、何人か」
美空がまた首を横に振る。
「駄目。学園長の手が回ってるみたいで、他の先生も何もできない状態なの。この学校って、メディアの規制
 とか厳しいでしょ? 迂闊に外と関わりを持ちたくないってのもあるだろうし、“そういう力”が働いて、
 みんなも両親には言えないみたい」
朝倉が黙って腕を組み、考えを巡らせた。
学園長は優秀な魔法使いで、何者かによる『精神のコントロール』に掛かってしまうとは考えにくい。それに、
学園長一人の精神を操ったところで、あの脳天気な3-Aが、あの様な変貌を遂げる筈がない。
「ねぇ、今の3-Aでさ、いじめに参加してる人とか、例えば本屋みたいに、昔とは全然違うって人、どれぐらい
 いる?」  美空がぽりぽりと頭を掻いて、呻り声を上げた。
「難しいな。突然変わったわけじゃないし、朝倉の言う“昔”が、どの時期の事を言ってるのかも分からない。
 それに、自分がいじめられたくないから仕方なく変わった、って人も少なくないと思うよ。私の知ってる限り
 で、いじめに全く参加しないのは亜子だけかなぁ。なんだかんだ言って、大人しそうな人だって命令されたら
 ちょくちょく参加してるしね。まぁ、確かに、本屋とか木乃香とか、明日菜は異常だったけど……あ、いやいや」
突然何かを思い出したかのように、美空がぽん、と両手を叩く。
「そうそう、長谷川さんと、ザジだ、うん。あの二人って、何故かいじめに全く合わないし、協力もしない。
 強制されてるのも見たことないな、私の見てた限りでは。みんなもたまに噂したりするけど。何でだろうね、
 って。もしかして、木乃香達と繋がってるんじゃないかとか、変な噂も飛び交ってるけど、う〜ん、やっぱ、
 あの二人は謎だわ。何考えてるのか分からないし」
「ザジと、ちうちゃん……」
昨日の夕方以前、つまり、朝倉が元々いた3-Aでは、最近二人の仲が良い、とか、はたまた別の意味で変な噂も
出てきてたりしている。その二人が何故か、いじめという黒い枠の外にいる。
「ということはつまり、3-Aはみんな一通りいじめられたってこと?」
「そうだね。大きい小さいはあるけど、その二人を除いたらもう一通りは回ってるかな」
「アンタはすばしっこくて、捕まえにくいから、最後に回ったわけだ」
「私をサルかなんかと勘違いしてない?」 不満げな顔で美空が答える。


早朝に目が醒めてしまい、やっぱり昨日の出来事は夢だったんじゃないかとささやかな期待を抱いて、自分の机の
上にあるCDラックに目をやったが、そんな期待も虚しく崩れ去った。朝倉は溜息を一つついて、まだ眠気の
醒めない頭で美空の寝ているベッドの方へ歩み寄ると、体の力を一気に抜いて倒れ込んだ。
「ぐぇ」とか「ぅえ」とかいう呻き声が聞こえたが、気にせずそのまま美空を抱き枕代わりにしてもう一度寝た。

気だるい体を起こして時計を見てみると、結構な時間だった。神経を張り詰めてばかりいたせいか、
かなり深い眠りに就いてしまったらしい。慌てて支度を済ませると、美空が用意してくれていたパンにかぶりつき、
冷たい紅茶を喉に流し込んだ。
「どうしたの、なんか気だるそうだけど」
「アントニオ猪木にサバオリされる夢みた」
お気の毒さま、と朝倉がそれに答えると、二人で慌てて寮を出た。

千雨とザジには何を質問すればよいのだろうか。朝倉は昨晩からその事ばかりを考えていた。
本当に木乃香達と繋がっているのか。そもそも本人達は、標的にされていないのが自分たちだけだという事実に
気が付いているのか。気付いていたとして、その理由を知っているのだろうか。
確証が何も無いうえ、切り口が見つからない。恐らく誰もが触れられたくない話題だろうから、迂闊な事を言って
信用を失ってしまっては元も子もない。
美空の世間話に空返事を返しながら、誰とも会わない事を願い、学園内へと足を進める。
誰かに見られている気がしたが、あくまで平静を装った。
教室へ入るための、スライド式のドアの取っ手に手を掛けた。嫌な声がする。だが、ここで動揺して妙な疑いを
持たれてはならない。私はあくまで、ここで生活していた彼女達と同じ、性格の悪い朝倉和美だ。
本来ならばいじめにも参加していなければならない。出来る限り周囲に溶け込み、波風を立てず、その中で情報を
集めなければならない。心の中で夕映に謝った。仕方のない事だ。私までが毒されてしまったら、誰も夕映を助ける
事なんてできない。だから、今は彼女達の悪行を見逃すけれど、決して夕映を見捨てたわけじゃないから。
なんだか言い訳がましくて心中のどこかがうずいたが、夕映はそれ以上に傷付いている。だから私も耐えなければ。
朝倉はできるだけ涼しい顔を心がけながら、自分の席に着いた。
学園内に入ってから、嫌な視線が背中に突き刺さっている。一番前の席に座っているんだから、それぐらい当然か。
いや、そうじゃない。何者かがこちらの様子を伺っている。
どうする。振り向いて確認するか。いや、もし目が合ってしまったら、会話せざるを得なくなる。
そうなったら、ぼろを出さない自信はない。振り返ってはならない。
「朝倉さん」
ビクリ、と体が反応した。右後方だ。声色は大分違うが、声の主は分かった。自然な動作を心懸けて振り返る。
「何?」宮崎のどかだ。
このクラスでの私の立場は美空から聞いていた。謙り過ぎず、偉ぶらず。
「昨日から大人しいですね、朝倉さん。いつもなら喜んで参加するのに」  のどかは机に頬杖を突き、
黒く澱んだ深い瞳の底から、痛い視線を飛ばしてくる。目が笑っていない。
「前から『夕映は気に入らない』って言ってたじゃないですか」
「あ、あぁ、ちょっと体調が悪くて」  我ながら出来の悪い言い訳だと感心する。 「そんな気分じゃないんだ」
朝倉は余裕を見せるために僅かに微笑んでみたが、のどかはこちらを疑う視線を緩めない。
「へぇ、体調……」  薄ら笑いを浮かべながら、アーティファクトを取り出そうとしている。
まずい。頭の中を読まれたら、全てが台無しになってしまう。夕映を救えない、という気持ちの前に、自分が
標的になる事への恐怖感の方が勝っている事に気が付いた。
必死で頭の中を覆い隠す。駅前のお気に入りの定食屋、都内の古着ショップ、カメラ……
「のどか〜。ちょっと来てみぃ」
教室の隅から声が掛かった。のどかは一瞬だけ本の中身を確認すると、鼻を鳴らして木乃香達の方へと
去って行ってしまった。
敵に助けらたとはいえ、得られた安堵感は大きい。朝倉が大きく溜息を吐く。
しかし、のどかは朝倉のその動作を見逃してはいなかった。

再び夕映の苦痛に喘ぐ声を聞きながら一時間目、二時間目の授業を終える。
心が痛んだ。情報、情報とばかり口にして、肝心の人を助ける行為には遠く及ばない。勿論、いじめの現場を
カメラに収めて教育委員会にでも訴えれば、少しでも解決に近付くのだろうが、朝倉にそうさせない程、この
クラスの空気は重く張り詰めていて、朝倉の体を恐怖で縛り付けた。
休憩時間中、美空は一切話し掛けてこなかった。そこにどんな思惑があるのか解らないが、朝倉から進んで話しに
行く気分にもなれなかった。これでは千雨とザジに話を聞くどころではない。
こんな空気に3-Aは常日頃から耐えているのか。これなら、多少精神がやられても誰も文句は言えまい。
ぞくり、と背筋が凍った。
人間は極度の緊張時に第六感が活発になるが、今が正にその時だった。再び視線を感じる。右後方から、獲物を
狙う獣の様な視線だ。今度は誰だ。のどかは朝倉の右後方にいる。少し首を傾ければのどかの様子は分かるが、
確認の為に常にちらちらと見ていたら間違いなく疑われてしまう。一番前の席になった事を恨めしく思った。
のどかか、それとも、他の誰かか。
急激に冷や汗が額から滲み出てくる。背中に突き刺さるような、精神的な痛みがあった。
嫌な予感がする。誰かが突然、「今度は朝倉をいじめよう」とか言い出すのではないか。そんな考えに囚われ
ながら身を縮めた。誰かが背後から近付いて来る気配がある。
嫌だ。私は夕映を助けなきゃいけない。だから、いじめられたくない。お願いだから、私の事は放っておいて。
必死でそう祈る。
背後から声をかけられた。

「宮崎さんが本を取り出しました。朝倉さんの方を見ています。何か別の事、カメラの最新機種の事でも
 考えていてください。終わったら私が合図を出します」
はっとした朝倉が、慌てて鞄の中から大手家電ショップの雑誌を取り出した。最早、カメラの事を考える
よりも、頭の中が真っ白になっている。こんな雑誌であの本を誤魔化せるか疑わしかったが、今はバレない
事に全力を注がなければならなかった。
全神経を集中させ、必死でカメラのページに見入った。こんなに真剣にカメラの事について考えたのは、
生まれて初めてかもしれない。

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