「ちょっと夕映を押さえてて」
簡単な事だった。押さえているだけなら、幾分罪悪感も薄かった。
自分の特殊な立場を露呈させるぐらいなら、そんな罪悪感は安いと感じた。
そんな私の事を見ていたさよの視線は、とても冷めたものだった。まるで幽霊みたいだった。
麻帆良学園は、大人数が昼食を食べるための場所を確保できるように、カフェや食堂の施設が充実していた。そのため、見
晴らしのいい屋上といえど、昼食を食べるために来る生徒は少なかった。つまり、幽霊と話すには丁度良い場所なのである。
運動場から威勢のいい掛け声が聞こえてきたり、日差しが少し暑いと感じる他は、特に会話を邪魔されるようなものはなかっ
た。朝倉は屋上の端に陣取り、地面に腰を下ろすと、購買で買ったやきそばパンの袋を開けた。
「さっきは、ありがとう」
すぐ隣で体育座りをしているさよは、さっきから朝倉の方を困惑した表情でちらちらと覗き見ていたかと思うと、何度か口を開
きかけて、何かを言おうとしたその口を閉じた。
しばらく朝倉がパンを頬ばる姿を眺めたのち、さよは小鳥が鳴いたような小さな声で朝倉に尋ねた。
「今度は、いつまで続くんですか……」
朝倉は三分の一程残っていたパンを口の中に押し込むと、ペットボトルのミネラルウォーターで一気に流し込んで大きく息を
吐いた。
「ええと……とりあえず、幾つか話しておかなきゃならない事があるんだ」
膝を抱えたさよは、屋上の縁に頭を預けながら、顔だけを朝倉の方に向けた。
二日ぶりに見るその顔はとても小さくて愛らしく、大きく円らな瞳は、3-Aの生徒にしては全くといっていい程澱みがなかった。
たったの二日間会わなかっただけなのに随分懐かしく感じるのは、異常な世界に引きずり込まれてしまった不安と恐怖に縛
り付けられていたせいかもしれない。
「今、ここにいる私は、私だけど私じゃない」
哲学ともとれる解答に対して困惑の色を深めたさよに、朝倉は二日前の夕方からの出来事をかいつまんで話した。幸いな事
に、さよとは魔法の事についてある程度話していたため、朝倉の予測を交えながら話す事に苦労を要さなかった。さよは終始
黙って耳を傾けていたが、朝倉の話が終わると、立ち上がって背中を向けた。
「それで……さっきはどうして綾瀬さんを助けてあげなかったんですか」
「だから……迂闊に動くわけには……」 半ば必死でそう返していた。はたから見ればどう考えても言い訳なのだが、最早そ
んな感覚さえも麻痺している。
「嘘です……」
「え……?」 さよがこちらを振り返る。
「朝倉さんは、悪い事が大嫌いな筈です。だから、悪い事を見逃さないために報道部になったって教えてくれたじゃないですか。
なのに……、あなたも偽物です。本物の朝倉さんは……あんなの黙って見過ごすわけがないんです」
気まずい沈黙が流れた。同時に、朝倉の中には少しずつ苛立ちが募り始める。
「二日前まではいつも通りだった? それって、誰かをいじめてもいい理由ですか? 言い逃れですか? あんな弱気な朝倉
さん、見たくありませんでした。朝倉さんの話はとっても面白くて、時には正義感に溢れてて、凄く格好いいと思ったのに……。
あれじゃあ、今までと何も変わらないじゃないですか!! 朝倉さんなら、立ち向かえると思ってたのに……。今までの話は、
正義感に溢れた朝倉さんは、一体何だったんですか? 口だけだったんですか?」
「さよ……ちゃん……」
腹の底から急に怒りが込み上げてきた。さよの言葉は、許せる範囲を超えていた。
「人の話、聞いてたの? これはどう考えても魔法の仕業なんだってば! 簡単にどうこう出来る問題じゃあないってことぐらい
解るでしょ!? 逆の立場になって考えてみてよ! 次は自分の番じゃないかとか、どれだけ痛い思いをすればいいのかと
か、私は突然こんな状況に立たされたんだよ? もしかしたらもう戻れないんじゃないかって、凄く不安なんだから! それで
もこの世界に毒されないように必死で抵抗して、いじめに参加しない言い訳を常に考えて、凄く……凄く、怖いんだから……」
たったの二日間なのに、思い返しているうちに涙が込み上げていた。抵抗しようとしたけれど、止まらなかった。また自分への
無力感が募る。自分の言葉が全て言い訳に聞こえてくる。それでも、さよにだけは誤解されたままでいてほしくなかった。
「さよちゃんだって、あんな3-Aを見たくなくて、ずっと教室から逃げてたんでしょ。だったら私と一緒じゃない。なに偉そうな事言
ってるのよ。いくら60年間幽霊だったからって、常識ってものくらい解るでしょ!? 私は、パパラッチで、魔法の事も知ってる
し、幽霊とも知り合いだけど、普通の女の子なの。銃を扱える訳じゃないし、あんな重そうな刀なんて持てないし、足の速さだ
ってそこまで速くない。でも……それでも、悔しいんだから。これでいいだなんて、思ってるわけないじゃん!」
声を上げて泣きたかった。まともな友達ができると期待してしまった。自分の味方になって、これからもずっと助けて欲しかった。
しかし、それが脆くも崩れ去ってしまう。
さよは何も言わない。ただそこに佇んでいた。自分の言葉に怒ったのだろうか。60年前の古い幽霊と言われた事に傷付いてい
るだろうか。
「さよちゃん……。なら私の事、どうして助けてくれたの?」
涙を拭ってさよの方を見る。とても悲しそうな目をしていた。この身勝手な幽霊は、一体何をそんなに悲しんでいるのか。
「目が……綺麗だったんです」
曖昧な答えだった。だから、朝倉は次の言葉を待った。
「春日さんとお喋りしてた朝倉さんは、顔は虚ろだったんですけど、目はちょっと前までの朝倉さんの目で、とっても綺麗だと思
ったんです。もしかしたら、何かが変わったんじゃないかって、期待したんです」
いつの間にかさよは、屋上から消えていた。
朝倉はさよの消えた屋上でまた一人、膝を抱えて泣いた。
「どーしたのよ、和美・プレミアム」
帰ってからずっとベッドに伏せている朝倉を見かねた美空が、枝豆を差し出しながら尋ねた。一応、夕飯を食べていない
朝倉への配慮のつもりだったが、朝倉からの反応は虚しいものだった。
「あぁ何も答えられないぐらいショックってことねふーん」
しばらく朝倉の寝ているベッドの側で枝豆を食べながらテレビを見た。お笑い芸人の面白い話を耳に入れていれば、
多少なりとも笑うか気分が落ち着くだろうと思ったからだ。
「その、さ……慣れるよ、きっと。大丈夫、朝倉は頭いいから、すぐに順応すると思うよ」
CMの合間にちょくちょくと聞いて、話してくれるのを待った。わざとぽりぽりと音をたてて食べているのは、照れ隠しのためだ。
必死な美空を見かねたのか、朝倉がぼそりと呟いたのは、番組も終わりを迎える頃だった。
「さよちゃんと……喧嘩した」
「……ふ〜ん。まぁ、喧嘩は誰にでもあるしね。私と朝倉が喧嘩するぐらいだから、朝倉と幽霊も喧嘩ぐらい
するでしょうね」
怒らせちゃったかな、と何の反応もない朝倉の方を振り返る。そんな私達も、今ではこうやってお喋りしてる
でしょ、と暗に伝えたつもりだったが、無反応では何も分からない。朝倉にとって、さよとの喧嘩がどれほどの
意味を持つのかは解らないし、言い合いの内容を知る由もない。それでも、朝倉が“喧嘩”と表現したからには、
意見の食い違いなのだろう。喧嘩にはそれ以上の意味はない、と美空は考えていた。それが自分の意見だった。
伝わったかどうかは知らないが。だから、怒るんならさっさと怒ってほしい、と美空は思った。沈黙が嫌いなのは
美空も一緒なのだ。おかげで、この部屋にはいつも二人のお喋りが響いていた。それを思い出してほしい。
美空が溜息を一つ吐き、その場を立ち去ろうとした時、後ろから声がかかった。
「もうちょっと、そこにいて」
なんだかちょっぴり嬉しい気分になる。つい先日まで、いじめグループの一員だった朝倉だから、なおさらだ。
テレビのチャンネルを変えた。沈黙の最大のお供だ。世界の車窓から色々と見て回る番組がやっていた。雰囲気的にも
丁度良い。
「私……どうすれば、いいのかな」
「大分弱ってますね」
いつもの強気な朝倉ではない。朝倉はどんな状況でも、嫌々いじめに参加している時でも、トレードマークは
“元気”とか“強気”なのだ。
とかそんなイメージを勝手に抱いていた。
「やっぱり、そう見える?」 とかますます弱気な声で尋ねてくるんだから、これはもうそうとう参っているようだ。
「明日から陸上の特訓、する?」
「もう少し現実的な解決法をおねがい」
朝倉がオーディオのスイッチを入れた。ちょっとだけ気に入った、入れっぱなしのディスクが回り始めた。
テレビのボリュームは小さかったため、音楽の方はよく聞こえた。テレビはどこかの国の景色を映し出していて、
綺麗な新緑の並んだ山の路線が、曲とマッチしていた。
「最初はあんまり好きじゃなかったんだけどさ。なんかこの曲、暗いっていうより、暗い部分の中に
“希望は自分で見つけろよ”って言ってるように聞こえるんだよね」
外国人の男声ボーカルで、美空は歌詞の内容を全く理解できなかったが、なるほど朝倉の言った言葉は当たっている。
歌詞が解らないからこそ、自分であれこれ想像できる。確かに明るい展開には発展しないのだが、あと少しで
ゴールに届きそうな、そんなもどかしくて微妙なメロディを保っている。
「ホントだ。初めて聞いたけど、なんかいいカンジだね」
「初めて?買ったばっかりなのかな」
「いや、そうじゃなくて、前の朝倉はずっとヘッドフォンで聴いてたんだ。なんか自分の世界に入り込んで、
ひたすらに何か考えてるみたいだった。その時には、私が近付くだけで怒ったりしたけどね」
しばらく二人でそのCDに聞き入った。その間、お互い何も喋らなかった。何曲か聞き終わった後、朝倉と美空が
顔を見合わせたのは、他の曲も同じような感じで、どうにも聞き飽きてしまったからである。
「海外のってさぁ、似たような曲ばっか作る人って多いよね」
「……うん」
「あんまり暗いのが続くと、希望を見つける前に萎えるわ」
ディスクを止め、並んでいたCDの中から、一枚だけあった明るめのものと取り替えた。
曲の内容とは反対に、話題は元に戻る。現実は非情だ。
「本屋ちゃんのさ、頭の中を読む本、あるじゃない?」
「あぁ、あるね。あれは酷いよ。問答無用で頭の中読まれるもんね」
「最初は、さよちゃんが来て助けてくれたんだ。私って一番前の席でしょ?いちいち読まれるのを確認して
たら怪しまれると思って。でももし、私の頭の中を読まれたら間違いなくいじられるし、本屋の満足のいく
答えを出し続ける自信もない」
「それで、さよちゃんと喧嘩した理由って、何なの?」
朝倉の眉がハの字に曲がった。また悲しそうな目だ。
「私はもっと強気で、悪い事には立ち向かって、いじめに参加するような人間じゃない、だって」
「あー……それはまた……」
「ちゃんと事情も説明したんだよ? さよちゃん、魔法の事だって知ってるし、突然こんな世界に来た事、
全然理解できないって訳じゃない筈なのに……。私だって、弱気になる時ぐらいあるよ。いつもいつも
同じようなテンションを維持していられる訳じゃないのに……勝手だよね。さよちゃんは幽霊だし、気付か
れずに逃げ回る事だってできる。痛みだってないし、標的になる事もない。だったら、少しでも気遣って
くれるのが友達ってもんじゃないの? きっと、昔の人って強かったんだよ。さよちゃんが生きてたのは
終戦前だし、体罰とかも平気であったし。私に、勝手な幻想を抱いてるんだよ。そりゃあ確かに、私は世の
悪事が嫌いで報道部に入ってはいるけど、これはそういうのとは訳が違うでしょ? こんな状況、どうしろ
っていうのよ。ただの人間が、どうやってあの戦闘集団に勝てっていうのよ」
少し熱の籠もった言葉で、朝倉は自分の想いを告白していた。美空はその言葉を真摯に受け止めていたが、何か
やりきれないもどかしさのようなものを感じていた。やはり何かが違う。多分、さよと似たような気持ちかもしれない。
しかし、今それを言えば、朝倉にまた余計なダメージを与えてしまう事になる。さよと同じ事をしてはならない。
友達として、今は朝倉を慰めてあげなければならない。
このクラスを元に戻せるのは、朝倉しかいない。何故かそんな気がしていたからだ。
*
やはり朝倉は朝倉だった。狡猾で、陰険で、ある意味で気が強い。
朝倉に期待を抱いていた者は少なくなかった。報道部の力なら、彼女達を止める事ができるだろう、と思っていた。
しかし、当の本人が私を虐げる事を楽しんでいるのならば、最早このクラスを止めるものは何もない。
ならば、何故彼女は、あんな表情をしながら、私と意味のない写真を撮ったのだろう。あれからあの写真は、なんら
使われてはいない。朝倉はあの写真を保管しているんだろうか。あの写真を見て思い出に浸っているのだろうか。
考えずにはいられない。期待せずにはいられない。
あの写真を撮ってから、もう1週間が過ぎている。あの日から、目に見えて彼女は明るさを失い、私への行為はエスカ
レートしている。
もしかしたら、もう手遅れなのかもしれない。もし、私が助かるためのチャンスが到来していたとして、私はきっと
それを取り逃がしてしまったに違いない。そうだ、現実は、小説のようにはいかない。そう都合良く、誰かが助かっ
たりはしないのだ。
私は待つしかない。彼女達が飽きる日を。
*
宮崎のどかが私の頭の中を覗く事はなくなっていた。覗く必要がなくなったからだろう。
私はこのクラスに慣れ、適応していった。解決を先延ばしにしながら。仕方がない、このクラスを探るためだ。
クラスメートとも、普通に喋れるようになっていた。ただ暗いだけのクラスかと思っていたが、話してみると、案外
まともに答えてくれた。本当は喋りたくて仕方がなかったのかもしれない。元々が学園一うるさいクラスだったから、
心の内側には、きっと、話したい事が沢山詰まっているんだろう。
3-Aが私を受け入れてくれた。そう思うと、心の重荷が少しだけ降りた気がした。表面上は、元に戻った錯覚さえ
あった。このまま私が目を瞑ってさえいれば、何事もなく日々が過ぎる。なら、調査はその間にすればいい。
もう少し、もう少し時間が欲しい。その時になればきっと、その時の私が何か閃いていると、思う。
「何か用か」
特に誰を見ようと思ったわけではないが、エヴァンジェリンに意識が行っていた事に気付いたのは、少しきつめな
返され方をしてからだった。私は食後のカフェオレに差したストローから口を離して、向かいのテーブルに座って
いるエヴァに謝った。それっきりで終わらせようと思ったが、お互い一人きりだったためか、また何か話さなければ
ならない気分に駆られた。
「今日は茶々丸さん、メンテナンス?」
「そうだ」 気のない返事が返ってくる。目で、あまり話し掛けてくるなよ、と訴えているように見えた。
自分の身に起きている事を話そうかと思ったが、やめておいた。木乃香に報告でもされてしまったら、そこで終わり
だ。この平和な生活が、何もかも台無しになってしまう。エヴァンジェリンの性格からいって、それはないかもしれ
ないが、既に美空以外には信用を於けなくなっていた。
「あのさ……」
雑談だけ、と自分に言い聞かせてから、テーブルを移動してエヴァの隣に腰掛ける。「最近、どう?」
自分でも会話能力の衰えに気付いた。話題が浮かばない。それでも、話さなければ、何も進展しない。
「最近……? それは、いつの事だ?」 うっすらと笑った顔が、少し不気味だった。
感じたのはそれだけで、質問の意味を考えるには至らない。
「そ、そうだ。修学旅行はどうだった? 行った事なかったんでしょ?」
複雑な顔になったエヴァは、最近の話じゃなかったのか、と言おうとした言葉を飲み込んで、面倒臭そうに答える。
「ああ、楽しかったよ……。ずっとここに縛られてきたからな」
途切れ途切れに、会話は進む。朝倉は必死に話を続けた。笑顔を作りながら。そんな朝倉の顔を見ながら、エヴァは
昔を思い出していた。こんな表情を見たことがある、と。
あれは確か、葬式の時だった。気の強い少年だった。彼は、周りとは種族の違う地域で育ち、そこで様々な差別を
受けた。「〜人だから」と。それでも、生きていくには笑顔が必要だと考えていたようで、彼の唯一の身内である
祖母が亡くなった時、彼は言った。
「生きていれば、こういう事もあるよね」
その時の顔に似ていた。
「何をそんなに必死に喋る。まるで自分のために喋っているみたいじゃないか」
言われて朝倉は、はっとした顔つきになり、申し訳なさそうに残りのカフェオレを飲み干した。申し訳なさそうに
しても、カフェオレは別に怒らないぞ、と言ってやった。
「お前には、言っておくことがある」
「へ……? 何を?」
もうじき昼休みは終わる。別に言わなくてもいいか、とも思ったが、今ここで言っても別に悪い事はあるまい、
と、重い口を開く。
「ファシズム、という言葉を知っているか」
「まぁ……聞いたことならあるよ」
「意味は?」
「それは……知らない」 また申し訳なさそうに言う。
「まぁ、普通、十代は知らない。直接の意味は『いくつかの銃の先を束ねて立てること』なんだが、要するに、集団の意志を
統一させる事を言う。政治の世界ではあまり良い意味に使われてはいないな。どちらかといえば、悪の代表例、帝国主義や、
軍国主義を思い浮かべられてしまう」
朝倉は、テレビで何度か耳にしたその言葉の輪郭を思い浮かべる。
意志の統一……確かに、戦争などのニュースとよく一緒出てきていた記憶があった。そこまできて、ようやく
エヴァの言葉に察しがついた。つまり、今のクラスがその状況であると。
「それで、そのファシズムが、どうしたの?」
「以前に読んだ本の中でな。人が殺人を行う場合の心理について書かれた本だ。基本的に人間は、殺人には
抵抗がある。いや、動物全般がそうらしい。その本によれば、動物は、『同種類』の相手は、できるだけ
殺さないようにするらしい。つまり人は、たとえ相手が敵であっても、殺人を侵さない方法を選ぼうとする」
なんだか大げさな話だな、と思いつつも、朝倉は質問を返す。
「でも、戦争では、人は人を殺すよね」
「ああ。だから、殺人を実行するにはいくつかの要因があるんだ。たとえば、面白いことが書いてあったん
だが、戦争から帰ってきた兵士に、『なぜ人を撃ったのか』と質問をした時、一番多い答えは何かというと」
「殺されないために?」
「普通はそう考えるだろうな。だが違う。一番多いのは、その本によれば」
「よれば?」
「命令されたから」
「なるほど」
「これは他の人の実験でも明らかになっているらしいんだが、人は、命令を与えられれば、それがどんなに
心苦しいことであっても、最終的には実行する」
朝倉は、いまいちピンと来なかった。命令とは一体、誰に命令されるのか。権力の強い者か、力の強い者か。
ならば仕方がないのではないか。そう質問しようとしたが、エヴァは更に先を続ける。
「他の要因は、集団であることだ」
瞬間、朝倉の頭の中に、3-A全員の顔が浮かんだ。集団であること。意志の統率。支配。思考の停止。
エヴァに話しても、木乃香にバラされてしまう。そうに違いない、という解釈。
一体誰が、戦争を止められるというのだ。冷静になった単体か?支配者か?
アメリカが何だ、中国がどうだ、日本がどうだ。集団が騒ぎたてる。
ネットでの書き込みによって。マスコミによって。誰かの意見によって。
「勘違いするなよ」
「へ?」
上の空だった朝倉の視界は、麻帆良カフェの景色へと戻る。
「ファシズムは決して悪い意味ではない。この問題を解け、みんなで食事に行こう、遊びに行こう、これら
全て、ファシズムだ。あっけない一言で、人はその通りに動く。いちいちその意味を考えたりはしない、
そういうことだ」
そんな事を言うものだから、朝倉はまた混乱してしまう。
考えろ。外国の少女の美しい瞳は、そう言っていた。
「それから、最後にもう一つ」
ここまで饒舌なエヴァンジェリンも珍しいかもしれない。朝倉の頭は、知的好奇心に刺激されていた。
「気を付けろ」
「何に……?」
「私に、だ」
「それは、私に襲いかかるとか、そういうこと?」
「別に、そう思っていても構わん」
「命令されたから……か」
それってつまり、つまるところ、要するに、自分のせいにしたくないってだけじゃないのか。そう自分に言い聞かせて
みる。しかし、上からの命令ならばしょうがない、と、結局はそこに帰結してしまう。
そんな事を考えながら、朝倉は部室で、夕映と一緒に写ったデジカメの一枚の画像を見つめていた。
そこには、大きく歪んだ自分の姿が写し出されていた。
校内や廊下を写した他の画像は、別段何も変わったところはない。ピースサインを作った朝倉の姿だけが、大きく
ねじ曲がっているのである。これは、今の自分の心を写し出しているのかもしれない、ともっともらしい事を考えて
みたが、ただの故障だろう、と考えるのを諦めた。朝倉は、自分の頭に限界を感じていた。この世界は分からない事
だらけだ。考えても無駄だ。エヴァンジェリンの言葉も、結局最終的に何が言いたかったのか、さっぱり分からない。
朝倉は鞄を取って、椅子から立ち上がった。今日もレイアウトは何一つ進まなかった。あれほど血沸き肉踊る事件を
求めていたのに。朝倉は常々疑問に思っていた。何故、世の悪事は隠されるのだろうか、と。
簡単なことだ。怖いのだ。「上の者」が。力のある、権力のある上の者が、報道を許してはくれない。
報道の自由とは、報道者の力の及ぶ範囲しか許されていない。
下駄箱で夕映と出くわした。
「あ、夕映っち……」
最後まで言おうとした言葉を飲み込む。話し掛けてはいけない。目を合わせてはいけない。どこで誰が見ているか
分からないからだ。夕映も何か言おうとして、悲しそうな顔で口をつぐんだ。
「あ、朝倉。丁度よかった」 背後からの声に振り向くと、そこには明日菜がいた。慌てて愛想笑いを作る。
「明日菜、なに、何か用事?」
「夕映も、丁度いいや。これから木乃香と遊びに行くから。アンタも一緒に来なさい。いいわよね?」
夕映がびくつきながら頷いた。有無を言わさぬ言い方だ。遊びにいく、とまるで本当に遊びにいくように明日菜は言う。
もしかしたら、彼女達は本当に遊び感覚なのかもしれない。
麻帆良学園前駅から、電車に乗って三つ離れた駅で降りた。寮とは反対方向だ。帰り道が遠ざかる事に、朝倉は些か
不安感をおぼえた。安全地帯が遠のいていく。
「どこに……行くの?」
おそらく夕映も感じているだろう不安感の元を、明日菜に聞いてみた。夕映が聞いても、きっと答えてはくれないだろう、
と思ったからだ。しかし、朝倉の問いかけにも明日菜は何も答えず、人気のない薄暗い裏路地を進んでいく。あからさま
に、誰も助けに来てはくれなさそうな場所だ。
「着いたわよ」
林の中にひっそりと建つ、寂れた廃墟だった。一体何年前に建てられたのか、その佇まいを見ただけで、それ自体が
犯罪であるかのような威厳を放っている。「え、こんなに寂れてても、法律違反じゃないんですか?」と聞きたくなる
ぐらい、それは建物の雰囲気を逸脱していた。
足が震えてくるのが分かった。自分は只の傍観者の筈なのに、こんなに震えている。見てみると、夕映はやはり朝倉
以上に震えていた。
明日菜は、重たそうな入口の扉をなんなく開け、中に入った。朝倉も夕映も、中から吹き出てくる異様な雰囲気にのまれ、
前に進めずに、その場でたじろいでいる。
「何やってんのよ、早く入りなさいよ」
おそるおそる朝倉が足を進める。これから起こる事は、大体予測がついた。しかし、それを受け止めるのは朝倉ではない。
「朝倉、夕映も連れて来てよ」
私が?
そうだ、私が呼ばれたんだ。連れて行くだけ。私は連れて行くだけだから。夕映の腕を掴む。もうこれぐらいの事は
慣れた。彼女を傷付けるのは私ではない。私はただ、その場所へと連れていくだけ。
夕映が掴まれた腕を必死で放そうとした。抵抗する彼女は今にも泣きだしそうで、薄暗い林の中でもはっきりと分かる
ぐらい、瞳が潤んでいるのが分かった。
大丈夫、後で助けてあげるから。頭の中でそうつぶやく。それがなぜ、言葉になって出てこないのか。これは、夕映を
安心させるための言葉ではないのか。
廃墟内に足を踏み入れた時には、夕映はもう抵抗することを諦め、泣くことで恐怖を和らげようとしていた。
「なんや、遅かったなぁ」
窓ガラスは破れ、外の薄明かりがかろうじて入ってくる程度の明るさだった。一人椅子に腰掛けた木乃香と、のどか、
龍宮、明日菜、そして夕映。いや、私もあっち側に含まれているのか。自分が人をいじめる立場にある、という意識の
低さに気付かされた。
「あの二人がなかなか入って来ないのよ」
明日菜の言葉を無視して、のどかが笑顔を向けてくる。
「久々に遊ぼうよ、ね? 夕映」
朝倉はのどかの本が開いている事に気付いた。覗くとしても夕映の頭の中だろうが、もし、ほんのちょっとした拍子に
私の頭の中を覗かれてしまったら、大変な事になる。私は彼女達への忠誠心が低い。
朝倉は可能な限り頭の中を空っぽにして、夕映をグループの元へと連れていった。それから、頭を覗かれないよう、急いで
のどかの斜め後方に立つ。中身を確認して、危なくなったら何も考えないようにしよう、という心許ない作戦をたてた。
しかし、そんな朝倉の作戦を知ってか知らずか、のどかは本に指を挟んで膝元に持っていった。
ああいう場合はどうなるのだろう。開いてるってことになるのかな。あれじゃあ何も見えないじゃない。今は読まれてない
よね。大丈夫だよね。どうせ常に人の頭の中読んで楽しんでるんだから、すぐに開くよね。
そんな事を考えているうちに、龍宮が木乃香の座っていた椅子に夕映を縛り付けた。手つきが手慣れているのは戦場でも
同じ事をやってきたからなのか、それともこのクラスで慣れたのか。
木乃香が鞄の中から、両手で抱えられる程の裁縫セットを取り出す。
「夕映、本好きやんなぁ。せやったら、ずっと本読んでられるように、くっつけたらええんやない?」
ああなるほど、今回はそう言う嗜好か、と無難な考えでのどかの本から逃げる。
裁縫セットから針と糸を取り出した木乃香が、屈託のない笑みを浮かべた。初めてあの笑顔を見た時、可愛い花でも
見ている気分になった。なんと素敵な笑顔だろう、と。始めてあの声を聞いた時、なんと可憐で、癒される声だろう、
と思った。
「でも、今回やるのは、ウチやない」
あ、じゃあのどかかな、と予想してみる。何か気に入らないとか言ってたし。
「かずみんや」
一瞬、そんなあだ名がこのクラスにいたっけな、と思ったが、それが自分のものだと知り、周りのみんなが全員こっちを
見て笑っているのに気が付いた時にようやく、ここは自分のために用意された場所だったんだ、と悟った。
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