「ハハ……え、私? ですか?」
誰も答えない。ただひたすらに微笑む彼女達。朝倉の口元も緩んでいたが、そこに含まれた感情は、周りとは全く違うものだった。
「え、いや、私は見てる方が好きだな。だって……」
「せやから、やりながら見たらもっとええと思うよ? かずみん、いっつも見てるだけなんやもん。
 やってみたら、きっと楽しくて仕方なくなると思うんよ」
言い逃れは無駄だと悟ったのは、のどかの次の言葉だった。
「もし出来たら、この本は開かずに、今この中に描いてある事はなかったことにしてあげます。でも、もし出来な
 かったら、この本を開いて、今まで読んだ朝倉さんの頭の中を、全部ここで読み上げますけど、いいですか?」
彼女達はもう、全てを把握しているのだ。
そうだ。一週間も逃れられる筈がなかったのだ。彼女達はもうとっくに私の頭を調べ上げ、ここに誘い込むよう計画を
立てていたのだ。そうとも知らず、私はただ現状維持に躍起になって、彼女達に媚を売る事だけを考えていた。
いつかはこうなる筈だった。いつまでも傍観者でいられる筈がなかったのだ。
選択は二つに一つ。彼女達に付いて、完全にこの世界の住人になるか、彼女達を拒み、夕映の苦しみを一手に引き受けるか。
「考えなくてもええやん」
朝倉は強く唇を噛み、震えた。悪魔の囁きを聞き逃すまいと、彼女の口から出てくる言葉を待った。
「ホントはな、どうしようかと思ったんよ。なんやかずみん、嘘吐いてたんやって、ちょっと残念やったけどな、
 今までずっとウチらに付いて来てくれたし、今まで考えてた事全部許したろ思ってな」
ゆったりとした口調でそう告げられ、妙な安心感を得てしまう。飴と鞭で揺さぶりをかけられ、朝倉の心が片寄り始めた。
そうだ、元々こっちの私は、ずっと彼女達と一緒になって、クラスのみんなをいじめていたって、美空も言ってたじゃないか。
もしかしたら本当は、私はそういう人間なのかもしれない。それなら、彼女達に付いたって、別に自分を曲げている
事にはならない。
「あなたが今まで私達を裏切る計画を立てていた事ぐらい、もうとっくにばれてるんですよ」
いや、別にそこまではっきりと裏切る計画を立てていたわけではない、と思ったが、私を引き込むためにそう言っている
のなら、それぐらいの嘘はつくかもしれない。
夕映がずっとこっちを伺っている、期待を込めた、嘆願するような、眩しいくらいの眼差しだった。
やめて、そんな目で見ないで。これから私は、あんたを裏切るんだから。
どうして私が夕映を守らなきゃいけないんだ。いいじゃないか。どうせここは別の世界なんだし。たぶん、きっと、
そうだ。今ここでちょっとぐらい夕映の指を傷付けたぐらいで、別に本物の夕映には何も影響はない。たぶん。
朝倉が裁縫セットに手を掛けると、夕映の顔には絶望の色が広がった。
水色の、可愛い花柄がちりばめられた蓋をあけると、同じく水色のクッションに刺さった裁縫針が、銀色の光を放って
いる。その中の何本かが一定方向に刺さり、先端が一つに纏まっていて、お互いを支え合っていた。

『いくつかの銃の先を束ねて立てること』
胸の奥から、急速に恐怖心が込み上げてきた。一本の裁縫針と、自分を重ね合わせる。
これが、私か。ファシズムが人の心を支配するのか。命令され、集団に紛れて恐怖を和らげるのか。
クッションに固定された針は、まるで人々の頭をくっつけ、有無を言わせずに並ばされているように見えた。
命令されたから? 当然じゃない。だって怖いんだもの。
しかし、何故か目の前の裁縫針からは、木乃香達以上の狂気のようなものが浮かび上がってくる。
「あ〜、そうや。かずみん今、手ぇ震えてるから、上手く糸通せへんよな」
そう言って木乃香は、龍宮に針と糸を渡した。この薄暗闇でもそんな細かい作業ができるのは、龍宮しかいない。
一瞬でその作業を終えると、龍宮はほら、と言って、ずいとこちらに針を押しつけた。最早、朝倉が裏切る事など
ありえない、とでも言うような雰囲気だった。
今更後戻りはできない。ここまで夕映を傷付け、ここまでこの世界に順応しておきながら、今更彼女達を裏切ったと
あっては、今までの私の努力が全て無駄になってしまう。
朝倉は針を受け取り、明日菜に押さえつけられた夕映の方を向いた。
「ほら、ちゃんと本持ちなさいよ……ほら!」
夕映は明日菜の腕の中で必死にもがきながら、無言の抵抗を続けている。動きが鈍くなってきたところで、今度は
真名に手と本を固定された。
「さあ……」
言い訳を考えるよりも、このままやってしまった方が早いのではないか、そんな思いが去来する。

朝倉は、自分の手を夕映の右手に添えた。分厚い哲学書を持つにはあまりに小さい、華奢で、細い指だ。
額に汗が滲み出てくる。
大丈夫、注射と同じだと思えばいい。こんなに細くて小さい針を通したところで、人体には何の影響もない。
動悸が激しく胸を打つ。
震える手で、夕映の爪を守る側面の肉に針を突き立てた。奥まで通り、ハードカバーの表紙にぶつかる感触があった。
頬を何かが伝った。多分、汗だろう。
涙ぐんだ夕映の目に、自分の顔が映る。なんだ、私ってば、やっぱり泣いてるじゃないか。

時間が止まった。脳が活性化した際に感じる時間の錯覚に襲われ、数日間の記憶が、ひっくり返した様に溢れてくる。

そうだ、目といえばレンズだ。あの時撮った写真、夕映っちはどう思ってるんだろう。やっぱり期待したかなぁ。
よく撮れてるから、現像してあげようと思ったんだけど。そういえばあの暗いCDは、こんな廃墟とか薄暗闇が似合って
るよな。ジャケットもそれっぽかったし。それにしても最近、お笑い番組はマンネリ化してきたよなぁ。
初めて見た時はあんなに笑ったのに。世界の車窓からの方がまだ面白いって。
そうそう夕映っち、購買にまた新しい変なジュースが入ってたよ。「柚コショウ味」だって。柚コショウって。使い方
間違ってるよね。


「おい、何やってるんだ。針が抜けてるぞ」
真名の声は、夕映の手を引いて逃げ出した朝倉の耳にはもう、届いてはいなかった。


『テンション/ストライク』

「私、捕まえてくる」
走り出した明日菜の背中に、木乃香は呼び掛けた。「別にええよ」 明日菜だけが今回の目的を理解していなかった
様で、皆一様に呆れた顔をしていた。
「今回は別に、これでええんよ。明日菜、ウチの話ちゃんと聞いとった? まぁ別に、かずみんがあのまま
 続けててもよかったんやけどな」
また自分だけがバカにされたと思い、明日菜は顔を赤くして怒りを堪えた。
「別にいいでしょ。私が勝手にアイツらを捕まえるだけなんだから」
明日菜の走り去ると、廃墟内は静寂に包まれ、溜息をついたのどかが木乃香に尋ねた。
「いつまであんなの置いとくんですか? まさかあそこまで理解力がないとは思いませんでしたよ」
「しゃぁないやん、明日菜、馬鹿力やし、足速いし。いろいろと便利なんよ」  木乃香が苦笑する。
出来の悪い部下を思いやる上司のようだな、と無言で壁に寄りかかっていた龍宮は思った。
「じゃあ、今日はもう、解散だな」



伸びきった雑草を掻き分け、日の落ちた林の中の暗闇を進む。居場所を撹乱するため、来た時に通った道は避け、けもの道を
外れて隠れるように進んだ事が幸いしたのか、誰かが追ってくる気配はない。朝倉と夕映はその場にへたりこんで、ぜえぜえと
呼吸を整えた。
「朝倉さん……どうして……」
朝倉は困ったように眉を寄せ、夕映から目を逸らした。
「分かんない……気付いたら針抜いてて、夕映っちの手握ってて……後悔もしてるし、これからもっとするかもしれない。
 けど……」
朝倉が突然、何かを思いだしたように夕映の手を取ると、球形の血が吹き出た夕映の右手の指を口にくわえ、大事な物を
抱えるようにして、自分の胸に抱いた。
「あ、朝倉……さん……」
「ごめん……夕映っち、ごめん……本当に、ごめん」  涙に震えた声で朝倉は謝り続けた。後悔している筈なのに、
言葉が勝手に口をついて出てくる。頭の半分では、夕映を罵れだの、今から引き返せば間に合うだの、別の誰かが自分を
唆してくる。しかし、それらはどれも空虚で、まるで自分の言葉ではない気がしていた。
夕映の指から針を離した時、怖かったのだ。突然頭の中に出現した日常風景は、自分を保て、という脳の最後の警告に
思えた。自分の知っている日常とはあまりにもかけ離れた目の前の現実へ、足を踏み入れていた自分が怖かったのだ。
「いいのですか、朝倉さん……あれはきっと、標的を朝倉さんに移し替えるための罠です。木乃香さん達は……」
「やめて……もうそんな言葉、聞きたくない。私、ようやく分かったんだ。全部言い訳だったって」
夕映は、握られた朝倉の手が冷え切っているのに気が付いた。それでも、朝倉から滲み出る暖かさには、微塵も不快感を
感じない。
「頭の中では、夕映っちを気遣うような言葉ばっかり言って、結局それは、自分を守ってるだけだったんだ。夕映っち
 のためを思ってやってるんだから、自分は悪じゃないって……そのうち、何も考えられなくなって……このまま
 何もなく、自分は痛い思いをせずに過ごせたらって……。バカだ、私、ほんとにバカだ」
狡猾で、陰険。表面だけで人を判断して、結局朝倉は、自分のために泣いてくれている。こんなにも自分の中の悪と戦い、
葛藤を続けていた人だったのだと、彼女の肩に置いた左手が震えを感じ取った時に、初めて知った。彼女は、私のために
泣いてくれている。
「私に……誰かに謝られる資格など、ないのです。……私だって同じです。木乃香さんと一緒になってのどかをいじめ
 ている内に、『自分が人をいじめている』という感覚が麻痺していったのです。それなのに、都合の良い言い訳
 ばかりを考えて……」
ふと、二人同時に顔を上げた。この距離になるまで気付なかった事を悔やむ暇はなかった。二人のすぐそばの松の木の陰に、
怒りを露わにした明日菜が立っていたのである。
「傷の舐め合いはそこまでにして貰おうかしら」
考えるよりも速く、朝倉がとっさに夕映の手を引いて逃げ出そうとしたが、夕映はその意志に反して、交渉に乗り出した。
「あなた達の目的はもう果たされている筈です。朝倉さんを陥れるために、こうなるようにし向けたのではないのですか?
 だとしたら、これ以上何をする必要があるのです」
「るっさいわねぇ。そんなの関係ないのよ。あたしはただ、あたしの意志で動いてるだけ。捕まえたいから捕まえるの。何か
 問題でもある?」
「だめだ夕映っち、逃げよう。話し合いとかはもう、通じないって」
朝倉がそう促しても、夕映はまだ何か明日菜に言いたそうで、走り出すのをためらっていた。
「いいから、さっさと殴らせなさい!」
明日菜が目前まで迫ってきて、話は後で聞くから、と夕映の腕を強引に引っ張った頃、ようやく二人で走り出した。
しかし、二人共到底明日菜から逃げ切れる程の足を持っていない。おまけに、ここに来るまでにも全力疾走しているため、
体力の消耗は著しかった。
「このままでは追いつかれてしまいます。二手に分かれて、民家に出たら助けを呼びましょう」
朝倉の口から了解、と出てくる事はなかった。暗闇が災いして、明日菜が予想以上に速く背後を走っていた事に気付かな
かったのである。気付けば、朝倉の背中には既に明日菜がのし掛かっていた。
「朝倉さん!」
「夕映っち、速く逃げて! 人を呼べばなんとかなるから!」
一瞬でも夕映に躊躇いを持て余してほしくなかった朝倉は、それが最善策である、という意志を込めて叫んだ。夕映はその
僅かなニュアンスから朝倉の意図を汲み取り、街の灯りのある方へと全力で走り出した。そんな二人のやり取りを見て
勘違いをした明日菜は、自信たっぷりに言い放つ。
「ッは! 残念だったわね。必死で助けた恩恵があれよ。分かった? ここじゃあ思いやりなんて無意味なものなのよ」
「へへっ、あぁそりゃあ残念だわ。じゃあ命乞いでもしようかな」
背中を取られた朝倉は、容赦なく明日菜に腕の関節を極められた。筋肉の捻れる感覚に、必死で悲鳴をかみ殺した。叫び声を
を聞いて夕映が戻って来てしまっては、元も子もない。
「いッ……!  そ、それで、この状態から、どうやって、連れて帰るわけ?  ロープはちゃんと持ってきたの?」
挑発的な朝倉の言葉に、明日菜が更に激昂した。朝倉を地面に仰向けにして、強力な腕ひしぎで精神を追いつめていく。
「あ、あんたまで、あたしを馬鹿にするなぁぁあああ!!」
堪えきれなくなった朝倉の口からは、猛獣に噛みつかれた草食動物の様な呻き声が漏れた。
朝倉は自らに罰を課していた。夕映を傷付け、それでも自分を許してくれた彼女の心の傷の代償が腕一本ならば安いものだ、
と沸き上がる痛みに必死で耐えた。
口の中に入った土を吐き出しながら、死に物狂いで呼吸を続ける。
意識を切ったら負けだ。こんな程度で痛みから解放されちゃ駄目だ。私が夕映の身代わりになって、クラスを元に戻すんだ。
もう覚悟は決めた。明日からは私が痛めつけられるんだ。これぐらいで弱音を吐いてちゃ駄目だ。泣いちゃ、駄目だ。
「あ、あんたいつまで我慢するつもりよ。このままじゃ、ホントに腕壊れるわよ」
「なら……痛いって、分かってんなら、やめればいいでしょ。……私は、耐えるって、決めたん、だから」
呼吸が危うくなり、痛みにより神経が麻痺してきた頃、唐突に身体が解放された。
腕を元に戻そうとすると、神経に激痛が走る。肩を押さえながらゆっくりと身体を起こして明日菜のいる方を向いた。
明日菜が自ら解放してくれたのかと思ったが、そうではなかった。走り去ったと思っていた夕映が戻って来て、明日菜に
体当たりを喰らわせたのである。
「戻って来ちゃ駄目じゃん! なんで逃げなかったのよ!」
今度は夕映が明日菜と取っ組み合いになった。力では到底敵わない夕映は、明日菜の腕を押さえるので精一杯だったが、
それでもあっという間に地面に押し倒され、明日菜が馬乗りになる。
嘆いている暇はない。朝倉は明日菜の背後を取り、両腕をひねり上げた。もしかしたら、二人がかりなら勝てるかも、という
見通しは甘かった。明日菜が本来持つ恐るべき力で捻られた腕を戻し、朝倉の胸ぐらを掴み上げると、そのまま拳を固めて
腕を引いた。危険を感じ取った朝倉は咄嗟に足を前に突きだし、明日菜の胸を蹴り上げる。
呻き声をあげた明日菜から何とか逃げ出し、再び夕映の手を引いて走り出す。
「馬鹿、何で逃げなかったのよ!」
夕映は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回し、ある一方向を見定めると、その場所を目がけるようにして方向を
変えた。朝倉自身、帰り道の方向を見失っていたため、夕映に着いて行くしかない。
「マズい、また追いつかれる」  これでは先程の二の舞だ。そう思った時、突然背後に風のようなものを感じ取った。
暗闇のせいか、それとも速度が速過ぎるせいか、肉眼ではとても捉えられないスピードだった。朝倉が確認しようと背中を
向いた直後、明日菜が何かに足を取られる様にして、前のめりに転倒する。
呆然と立ちすくんだ朝倉は、風に乗った匂いを鼻に吸い込んだ時にようやく、夕映がどんな判断を下したのか、理解した。
シャンプーの匂いだった。朝倉はその匂いを知っている。なにせ、自分も同じものを使っているんだから。


「駅までの近道です」
夕映がさっきから握っているのは、細めのロープだった。よく目を凝らすと、林の中の道標の様に、ずっと先の方まで
伸びている。見知らぬ林の暗闇の中では、あまりに頼りがいのある存在感を放っているそのロープを、反対側の手に持つ
朝倉の手と同様、決して離すまいと、夕映はしっかりと握りしめた。走りながら事情を聞くと、どうやら美空が駅からの
最短距離を見つけ、ここに至るまで木にくくりつけながら進んできたらしい。最初は自分の帰り道の確保が目的だった
らしいと、夕映は言った。
「国道に出る前に出会いました。後ろから声を掛けられたので、恐らく最初から着いて来てくれていたのでしょう。
 朝倉さんの声が幸いして、近くの草むらに潜んでいたようです。」
「一人で?」
「いいえ、近くに小さな子がいました。中等部一年か、小等部か……」
「でも、美空一人で大丈夫なの?  正直、あそこまで明日菜が馬鹿力だとは思わなかったけど」
「ほんの少しだけ、時間を稼いでくれるらしいです。あくまで顔を出さないつもりらしいので、どの程度かは分かり
 ませんが、駅に着くまでの時間に余裕はできる筈です。このロープを伝って国道に出てからは、先程言った小さな
 子が駅まで案内してくれるそうですから」
朝倉がくすり、と微笑んだ。まさかあのやる気のない美空がここまで大それた事をしてくれるとは思わなかったのである。
しかも彼女は、心配で自分たちの後を着いて来てくれていた。微笑ましくもあり、頼もしくもあった。こっそり着いて来る
ところがまた、美空らしい。
「時間稼ぎって、具体的にどういうの?」
「このロープを使って、明日菜さんの前に簡単な足掛けのトラップを張っているようです。明日菜さんはこのロープが
 駅までの近道だという事を知りませんから、時間稼ぎには最適な策だと思うです」
車道を走る車のライトがうっすらと見えてきた。暗闇の先に小さな女の子が立っているのが見える。夕映に尋ねると、どう
やらあの子がそうらしい。
逃走に次ぐ逃走で、二人の息は限界まであがっていたため、目標の女の子の立っている場所に着いた頃には、二人とも
地面にへたりこんでしまった。しかし、女の子はそんな二人のエネルギー切れは気にもとめず、一言、こっち、と言って
さっさと歩を進めた。助けてくれるんだから仕方ない、と朝倉と夕映はふらふらになりながら女の子に着いて行く。
「ちょ、ちょっとまって……」
よく見ると、女の子は浅黒い肌で、顔つきも日本人には見えなかった。留学生の受け入れが多い学校だから、彼女もそうな
のだろうか、と思ったが、尋ねるのも億劫な程に疲弊していたため、黙って後ろを着いて歩いた。
駅が見えると、その女の子はこちらを見て「もう分かるでしょ」という視線を送ってきたかと思うと、さっさと元来た道を
引き返してしまった。なんだか睨み付けられるような目つきで、とても人当たりがいいとは思えないけど、それでも何より、
今は第三者の優しさが嬉しかった。
「どこへ行くです。駅はあれでいいのですよね?」
女の子は面倒臭そうに一言、美空、残ってる、とだけ言ってさっさと走り去ってしまった。美空の知り合いならやっぱり
体力とかもあるんだろうか、と思ってから、自分を抜かして考えている事に気が付いた。

寮に着いて、泥だらけになった二人分の学生服を簡単に手洗いしてから自室でシャワーを浴び、夕飯の支度を夕映と二人で
準備し始めた頃、よれよれになった美空が帰って来た。
「へへっ、陸上部のランニングも、楽じゃ、ないぜ……」
「大会とかあるんなら教えてよ。根回ししといてあげるから」
「それは、私の足を信用してないって事か」
「シスター服姿でランニングとか言っちゃうような方の足はちょっと……」
今日の食卓は二人ではなかった。そのことに美空はなんら不信を抱く事もなく、いつも通り、うす、と挨拶を交わして
大人しく夕食に手を着けた。
「あの……、今日は本当に、ありがとうです」
「へ? 何が?」
「謎のシスターに話は聞いてると思うけどさ、その人が私達を助けてくれてね。それで、よくロープなんて持ってたね」
「すいません、やっぱメンドいんで、私がシスターってことでいいです」
夕映だけがその不思議なやり取りを見て、首をかしげた。
「まぁ、経験者はなんとやらってヤツだね。ていうか、実は前、あの場所に連れてかれた事あるんだわ。本気で迷い
 かけて、泣きそうになりながら走った思い出がある。朝倉達の後こっそり着けて、駅に着いてから、やっぱ
 あそこに連れてかれるんだろうなぁって思ってさ。一旦学園まで引き返したんだ。前にあの場所に行った時は、
 ココネにこっそり着いて来てもらったから、なんとか念話で誘導してもらえたけど、前回の二の舞になるかって
 思って、ちょっと学校の用具室から拝借した」
「ココネって、あの?」
「そうそう、あの小っちゃい子。目つきはちょっと悪いけどさ、すごくいい子なのよ。今回もなんだかんだ言って、
 着いて来てくれたしさ」
「うん、それは素直に感謝してるよ、もちろん、二人にね」
「なんか今取って付けたような感じが」
「それよりも、私には春日さんの口から念話という言葉が出てきた事に驚いているのですが」
「最近流行ってるらしいよ、念話」
それからしばらく、三人とも黙々と夕食を食べた。誰かが話せば相槌をうち、愛想笑いではない笑顔で満たされ、当たり前の
友達同士の会話が続いた。
「ねぇ、ところでさ、美空」
あと5分と少しで深夜10時になろうという頃、カードゲームで朝倉が三連勝を遂げた時だった。負けた者は“肉”という
テーマで自作のポエムを発表するという過酷な罰ゲームが待っている。勝負の結果に納得のいかない様子でカードをまとめて
いた美空が顔を上げた。
「ようやくイカサマを認める気になったか」
「いや、イカサマはしてないけどさ。結局あの後、明日菜ってどうなったの?」
「へ?」
「いや、あの道ってさ、すごい迷いやすいんだよね? 美空がロープ持ってくるぐらいだし」
「まぁ確かに、あの獣道を外れると、元の道に戻るのは厳しいね」
「木乃香達ってさ、助けに行ったと思う?」  夕映が朝倉の言わんとしている事を察したらしく、口を開いた。
「あの場所に、明日菜さんが置き去りにされていると?」
「まっさかー」  夕映とは対照的に、美空はその予測を全く信じていない様子だった。
「いや、あたしもあのグループにしばらく身を置いてさ、なんとなく分かるのよ。グループ内でのぎくしゃくとか、
 誰の発言権が高いか、低いか、とか。それで、明日菜ってどうも、あんまり好かれてないらしくてさ」
「確かに、言われてみればそんな印象もあったです。一人だけ行動が浮き足立っているというか、集団に入り切れてい
 ないというか……」
集団、という言葉に朝倉が反応を示した。そう、個人を見捨てるのは、いつも集団だ。それは珍しい事ではない。しかし、
集団が個人を救う事は滅多にない。
「いやいや、いくらなんでも、あんな所に置き去りにするってことはないでしょー」
「あの集団の怖いとこはさ、そう言い切れない事なんだよね」  言いながら、朝倉は机の上に置いた携帯電話を取り、
登録してある明日菜の番号で通話ボタンを押した。
「あそこ、電話通じないよ」
呼び出しコールを10回聞いたところで、アナウンスが電波の不通を告げた。
「よし、聞きに行こう」
「ここからは、“お一人様コース”となります。なお、連れ添いを付ける場合、別料金で五千円を」
朝倉が眉間に皺を寄せながら、美空をじろり、と睨む。
「私も行くです。別に、無理に春日さんを連れていかなくてもいいかと思うです。助けてもらった事ですし」
「じゃあ私はここで、泥棒が入ってこないか見張ってるです」
「……マネするなです」  夕映も不満そうな顔で、美空に視線をぶつけた。
「なんで行くのよ。いいじゃん、別に。明日菜にだって今まで散々苦しめられてきたんだしさ。自業自得だって」
「汝、悪をもって悪に対するなかれ、ってね。神様に助けてもらいたいんなら、まず良いことして神様に報いないと」
「菓子折とかの方が喜ぶと思うな」
「あんたって、本当に神様信じてるの?」
「まあね。信じりゃ、どうにかなるもんみたいよ、神様って」

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