-
『 風音 鈴 』
私の祖父が声をかけてきたのは、 午前の稽古が終わってからだった。 まだ夏に入る前のややむしむしとした陽気で、 私が着
込んでいた着物は既に汗が染みていた。 といっても、 合気道の稽古を終えたばかりの祖父ほどではなかった。
「少し休んでからにしたら?」
私がそう言っても、 祖父は別に汗など気にならないのか、 私を居間の方へ着いてくるように促し、畳の上に腰掛けると、 私から
受け取ったタオルで顔を拭きながら尋ねてきた。
「どうだ、 雅之は都会に出て仕事に就くと決めたらしいが、 お前はどうなんだ」
雅之とは私の父の名で、 今はこの辺鄙な田舎で工場の下請けをやっている。 母は私と同じく、 ここで道場生達の胴着の洗濯
や、 昼食を振る舞ったりしていて、 母の料理は軽い定食屋でも開けるぐらい美味しいと祖父も絶賛しており、 この道場の隠れた
人気の秘密でもあった。
「雅之のお袋も一緒に行くらしいが、 お前は……やっぱりここに残るのか?」
今までに何度かこの話をしてきたが、 考えを変えるつもりはない。 私は別に、 そこまで都会に興味はなかったし、 この道場の
雰囲気はとても好きだった。
「別に気にしなくてもいいんだぞ。 この道場は俺一人でもなんとかやっていけるし、 おまえの才能をここに活かせ、 なんて野暮な
事は言わんから、 少し都会で自由に生きてみるのもいい」
「おじいさん、 案外知らないかもしれないけど、 私結構ここ好きなんですよ」
祖父はとても厳格な人で、 礼儀にもうるさいところはあるけれど、 その厳しさは優しさから来るものだ、 と小さい頃から母に教
わってきた私は、 言葉の端々に滲み出る優しさにも気付いていた。 今はもう亡くなってしまったけど、 祖母から聞いた話では、
祖父は物事を遠くまで見渡せる知的さも持ち合わせていて、 人の考えている事を一歩も二歩も先に立って言葉を発することが
結構あったらしく、 それはつまり、 『こう思っているに違いない』という先入観がないことの表れでもあった。 証拠に、 私はいつ
も祖父の一言に納得させられ、 反発心も殆ど跡を残さなかったのだ。
それは合気道の指導力にも活かされていたようで、 私がここの道場生の誰にも負けたことがないのは、その長年の指導力の
おかげだと思っている。
その祖父がやや物憂げな顔で、 珍しく言葉を発するのを躊躇っていた。 でも、 それは家族共通の話題で、 私にも祖父が何を
言いたいのかぐらいは理解できた。
「志摩の面倒は俺が観るから、 それも心配いらない」
私は少し言葉に詰まる。 私が、 本当は都会に行きたいけど、 無理をしてここに留まろうとしているのではないか、 と心配し
ているのだ。 でも、 私は本当にそれは違う、 と伝える手段を知らなかった。 だから、 出来る限りの笑顔を心懸けるしかない。
「本当、 大丈夫だから。 それに都会は一度味わってるし」
私達一家は、 一度都会に出ている。 そして、 とある一件がきっかけで、 この父方の祖父が営む道場へと戻って来たのだ。
私達は、 あまりこの話をしない。 口に出した瞬間、 誰かのせいになってしまいそうで、 誰もが胸の奥にしまおうとしている。
沈黙が流れた時、 丁度良いタイミングで客間の方から母の声が上がった。 昼食の用意ができたらしく、 二人で同時に立ち
上がった。 私は、 母のこういう絶妙なタイミングが好きだ。
弟の志摩は既に長テーブルに着いていて、 同い年の道場生と楽しそうにお喋りしていた。
「そのキラカード偽物だから」
「だからオメー、 んなわけねぇだろ。 何で店で買ったやつに偽物が混じってるんだよ」
言い争いに見えて、 実は毎度この調子なのだ。 最初は二人とも子供らしからぬ遠慮で、 互いに一歩ずつ引いていたのだが、
喧嘩もせずに友達気取るぐらいならいっそ殴り合え、 という年上の道場生の言葉を本気にして、 本当に殴り合いの試合になっ
た事がある。 止めたのが私だけ、 というのもおかしな話だ。 それ以来、 本当に二人は何でも言い合える仲の良い友達になっ
た、らしい。
「ほら、 ここ」 弟が何やら胴着のポケットから似たような物を取り出し、 友達に見せて指を差した。
「裏のこの部分、 微妙にマークが曲がってるだろ。 それに、 多分そのせいでそっから先の模様も微妙にずれてる」
男の子は眉間に皺を寄せながら、 納得がいかないのか、 何度も顔を近付けては真剣にその部分に見入っている。 興味を
持った様子で、 隣に座っていた、 ゴリラを思わせるような体格の持ち主の上級生が、 顔を覗かせた。
「本当だぁ。 こりゃあ、 印刷ミスなんじゃねぇのか?」
「う、 うそだぁ。 だって、 めちゃくちゃレアなんだぞ」
「レアかどうかは関係ないって。 そういう事もあるよ」 私の弟は、 既に興味を失ったのか、 目の前に出された昼食の匂いを
楽しんでいた。 「ごしゅうしょさま、 ということで」
「しっかし、 志摩よぉ。 よくこんな小せとこ、 見つけたなぁ」 上級生が時々出る訛を効かせ、 志摩に向かって豪快な笑顔を
見せると、 志摩は別に照れた様子もなく、 回ってきた茶碗を受け取った。
「別に。 こんなの、 誰にでも見つかるって」
恐らく、 この家族で一番色濃く祖父の血を受け継いでいるのが弟の志摩で、 物事の吸収が異様に早く、 誰も気が付かない
ような些細な事を指摘してみせたりすることが、 度々あった。 好奇心が旺盛なのもさることながら、 父と祖父の書斎に忍び込
んでは、 適当に何冊か引っ張り出して、 食事中に読んで叱られることも多い。 それでも、 二、 三日したら新しい本を手に持っ
ているのだから、 本当に読んでいるのかどうか、 あやしい。
「本当に中身解るの?」 と質問したことがあったが、 「ううん、 ぜんぜん」 という答が返ってきた。
「でも、 中身は全部憶えてるよ。 いつか思い出した時に役に立つことがあるかもしれないし」
その言葉を聞いた時は、 父も母も、 勿論私も、 笑うしかなかった。
午後の稽古が終わり、 日が半分程姿を消した頃、 祖父が弟を自分の部屋に招き入れている姿を見た。 私と同じ話だろうか、
と思ったが、 なぜ居間ではなく、 祖父の部屋なのだろう。 そんな疑問が浮かび、 すぐに頭の中でうち消した。 祖父は祖父なり
の気の使い方がある。 私はそのやり方に口を出すような事をしてはいけない。 弟にしたって、 自分の事について知らないわけ
ではない。
初めてその事件が起きた日から、 もうすぐ四年が経とうとしている。 志摩が七歳になる年で、 私が中学生に上がった頃の事
だった。 時期は今と同じ、 初夏の日差しの強い季節で、 制服が肌に張り付く程湿気を帯びた日の夕方に起きた。
私は台風の多いその季節が嫌いで、 降るのか降らないのかはっきりしない雲に覆われている空を見ると、 憂鬱な気分になっ
た。 来るならさっさと来て、 さっさと過ぎ去って欲しいと、 持っていっても結局邪魔になっただけの傘を腕にぶら下げながら、 下
り電車を降りた。 自宅に近付くと、 車道で遊ぶ弟を発見し、 憂鬱を吹き飛ばすためにからかってやろう、 と近付いたまではよか
ったのだが、 弟は背後の曲がり角から車が近付いてきているのに気付いていない様子だった。
私が危ない、 と叫んだのが功を奏したのか、 一緒に遊んでいた子が、 驚いた様子の志摩をガードレール脇に引きずっていっ
てくれた。 志摩は父にひどく叱られた後、 目の前に迫った車を 「オバケみたいだった」 と表現した。
それは、 いつもそんな事件の後にやってきた。 最初はただの台風だと思っていたのだが、 ニュースでは、 私達の住んでいる
関東地方にのみ、 局地的に発生したものだと伝えた。 最初に 「おかしい」 と指摘したのはやはり志摩で、 その台風は、 普通の
ものと比べて雷雨の量が遙かに多く、 空に立ちこめた雨雲は、 雷雨の象徴の様に黒く染まっていた。 「染まって」 の表現がその
まま当てはまるような、 正に絵の具を撒いたようなどす黒い色をしていたのだ。
私達家族の家は割と頑丈な方だったので、 あまり台風の影響を受けなかったのだが、 近所には屋根が吹き飛ばされた家屋も
かなりあった。 しかしながら、 範囲は本当に局地的なもので、 発生しては消えるといった、 勢力の弱いものだと思われていた。
二、 三度目に起きた時も、 似たような感じではあった。 志摩に沸騰した薬缶が倒れそうになって、 その時は家族全員が見て
いたため、 軽い火傷で済んだのだが、 やはり黒台風はやってきた。 その頃から、 父と母は志摩と黒台風の関係について疑いを
持ち初めていて、 私はまさか、 と軽く見ていたのだが、 六度目の黒台風が起きて、 楽観視できない事態である事に気が付いた。
弟が傷だらけで帰ってくるようになってから、 私は当然のごとく、 弟が学校でいじめられているのではないか、 という疑いを
持った。 志摩はそれを否定した。 「ちがう、 そうじゃない」と。
結論からいえば、 確かにその傷はいじめによるものではなかった。 しかし、 クラスの子達が志摩を気味悪がるようになって
いったのは事実だった。 志摩はあまり好かれるような性格ではなかったらしく、 私や母が何度か志摩の学校を訪問するように
なった事がクラスに知れ渡ったのも相まって、 志摩はクラスで孤立していった。
「お前のせいで俺達が疑われてんだろ」
「気持ち悪ぃよ」
志摩は、 それを認めていた。 自分で自分に傷を付けるやつなんて、 気持ち悪いに決まっている。 そう諦めていた。 しかし、
答えを見つけるまでは、 やめるわけにはいかなかったのだ。
私が間違っていたのかもしれない。 無理にやめさせようとしなければ、 黒台風は発生しなかったのかもしれない。 父も母も
心配して、 どう怒ったら良いのか、 迷っていた。
日曜日、 珍しく空き地で遊ぶ志摩の姿を発見した。 しかし、 それは遊んでいたわけではなかった。 私は何度も小学校を訪問
していたこともあり、 志摩のクラスでは結構有名人らしかった。
「来たぞ。 ほら、 言え」
「俺達は何もしてないって言えよ」
志摩は大人しくその言葉に従って、 私に向かって頭を下げた。 「このひと達は、 何も悪くありません」
「全部自分でやりました、 だ」
「全部自分でやりました」
「あとお前の姉ちゃん、 デカくてきもいって」 別の子が笑った。 「それは関係ねーよ」
「ほら早く言えよ、 きもいって。 もう学校来んなって」
私は棒立ちになっていた。 彼等には何度も怒鳴りつけている。 その結果が、 これか。
「もう、 学校に……」
「違うって。 きもい、 だよ。 ほら早く」
私みたいな中学生は、 人に説教をしてはいけないのだろうか。
「それは嫌だ」
「なんでだよ。 こっちは迷惑してんだよ。 お前のせいで変な疑いかけられて」 志摩が必死で涙を堪えている。
私は気付いてやれなかったのだ。 志摩のやろうとしている事に。
「あなた達」
私は一言、 やめなさい、 と言った。 今までに出したこともないぐらい怖い声だと、 自分でも分かった。 彼等は私の目を見る
と、 恐ろしさからか、 叫びながら逃げて行った。
空には既に巨大な暗雲が、 私達の上にのしかかろうと待ち構えていた。 その空の状況に気付いたのと同時だった。 私は弟の
やろうとしている事を、 ようやく理解したのだ。
彼は、 黒台風の発生する条件を調べていた。 ストレスなのか、 不安なのか、 恐怖なのか。 そしてそれは、 どの程度なのか。
しきりに黒台風の及ぼす被害を気にしていたのも、 そう考えれば納得がいく。 自分の体を傷つけ、 どこまでやれば発生するの
か、 何が条件となるのか。
結局、 その条件は分からず終まいだったが、 黒台風がその年最大の災厄になってからは、 志摩は 「もうやらないよ」 と家族
にうち明けた。 そして私達は都会を捨て、 それ以来、 今まで黒台風は発生していない。
第一話に戻る ≫